衆生無辺誓願度
(生きとし生けるものの数は限りないが、誓って救いとることを願う)
五大願の冒頭で、毎日お唱えし、その誓願を「心に刻む」ことが習慣になっているはずである。しかし「唱え」て「心に刻む」だけでいいかといえばもちろんそんなことはないはずです。
それをするために「具体的に何をしているか?」ということは本来意識して然るべきです。
「おまえは具体的に何をしてる?」
と自分に問うてみる。
なさけないことに即答できない自分がいる。
ここに「都合に良い言い訳」がある。
「いるだけで救える」という話。
仏教の修行をしていれば、その人の存在そのものが周りに良い影響を与えて自分が意識的に「救おう」という具体的なアクションを起こさなくてもOKという考え。
この「都合にいい話」をさらの推し進めて究極にしてしまうと……
前に一度記事にした「レインメーカー」のエピソードになってしまう。
覚えてますでしょうか?忘れてしまった人は前の記事を是非読み返してほしい。
これはその人の存在が「場を整える」ので人に関わる関わらない関係ないという究極の姿がある。
出所は忘れてが、天台大師智顗もそれができたとどこかの記事で読んだことがある。
「いるだけで救える」という話は「バタフライエフェクト」なんてSFのタイムマシン物で頻出の単語を持ち出せば「さもありなん」という気にもなってくるが、もちろん我々大乗仏教徒がそれで(いるだけで救えるから何もしない)で良いはずがない。
少し話が変わるが、最近では「お金」よりも「影響力」が欲しいという有名人を多く目にするようになった。これはSNSにはじまりいまではYoutubeなどの動画発信サイトで自分の声がどれだけ多くの人に届くかに価値を置く人が増えているということ。インフルエンサーという言葉もすっかり市民権を得ていますしね。
「慎ましく生きる」
宗教家には、どこかそんな生き方をするべきなんだ、という「イメージ」がついて回るように思う。
だから「企業」が行うような「発信」……分かりやすく言えば「広告」に関してはネガティブな態度をとる人が多くいるように感じる。「発信」だろうと「広告」だろうと多くの人に自分の存在を知らしめるという意味で大差はないと思う。
しかし理屈で考えれば「多くの人に声が届く」方がより多くの衆生を救済することができるのは火を見るより明らかである。
でもやはり宗教家は営利目的の企業ではないからと、「マインドブロック」が働く人が多い。
「知られなければ、その商品はないのと同じ」
これはよく企業の「広告」の重要性を説く論説で言われる文言。これを少し我々むきにアレンジするとこうなりますでしょうか。
「おのれの存在が、誰にも知られなくば、おのれはこの世に存在しないのと同じ。だからおのれの仏教徒としての教えは、この世に存在しないのと同じ。誰にも布教できなくてどうして大乗仏教徒といえようぞ」
これは我々も十二分に噛みしめるべき言葉と思います。
私は少なくとも「いるだけで」で周りに影響を与えるような徳の高い存在には当分(一生?)なれそうにないので、積極的な「発信」は今後も続けていく必要がありそうです。
こと「発信力」に関しては「慎ましく」というマインドブロックがかからないよう意識的にその「ブロック」を外しにかかっています。
「ひよっこの癖に何を偉そうに」
「初行の分際で」
「お前が語るな」
etc……
「発信」をすることでそんなことを言われるリスクは当然承知しています。でも私は大乗仏教徒として「いないのと同じ」存在にはなりたくないので、そのリスクを受け入れてでも「発信」を続けるという「選択」をしました。
記事が参考になったら
クリック↓お願いします!