仏教の信仰をはじめるのに、何から始めたらよいか?
曰く「先祖供養」なのか?〇〇のお経を読むことなのか?寺院への参拝を多くすることなのか?
などいろいろな正解があるのだと思う。
ただ個人的には「まずは祈願をお願いしてみれば?」と思う。
これは密教の行者という立場よりも、むしろ「信者」という立場であった経験からそう思う。
なにか「願い事」があってそれを叶えてもらう時に、仏教の祈祷寺院をたずねるなら少なくとも最低限、仏教に信心があるという前提は必要だ。
しかし、信心の程度の差こそあれ、「それ」さえあれば、祈願することがきっかけとなって様々な「学び」がその人に訪れることになると経験的に思うからだ。
それは何も「頂いたお札をどうやって、お祀りして、どんな勤行をして」という形式のことではなく(これはこれでとても大切だが)、それよりもその祈願を叶えるために、その人自身の生活、行動、価値観などの変容を余儀なくされる場面に出くわすことになる。これがポイントかな、と思う。
その行動変容は、おそらく仏教徒としての「心」「行動」が身に備わっていく。知らず知らずに。
そんな祈願を叶えるために、自分が変わるための「ヒント」に気づける人は、きっと祈願成就は早い。それに気づけない人は、残念ながら仏教徒としての心も育まれないし、行動も変わらない。だから祈願は叶わない。
祈願をしたときに、そんな風に祈願を叶えるために願主の心や行動の変化の後押しをするのは誰なのか?我々はそれを「護法神」だと学ぶ。ご本尊のご眷属とも。
最初はピンと来なくても「祈願」と「日々の変化」と「自分の行動パターン」のベクトルがあうように意識していると、その感度は少しずつ上がってくると思う。
今風に言えば「気づき」が多くなる。アンテナが高くなるともいっていいかも。これはきっと霊感云々の話ではなく、そういった訓練によって磨かれる誰にでも見つけることができるスキルだと私は思う。
だから思うことがある。祈願をよくする人は、きっと成長が早いと。もちろんただ我欲が強くて祈願しまくる人とは全く意味が違いますが(笑)
実は私も叶えたい祈願をしているが、「私が成長しない」からその祈願が叶わないと気付いてる祈願がある。その成長のために去年は随分苦労もした。でもまだ足りない。
「行者を目指しているから、護法神もより厳しい課題を出しているんだよ」と慰めてくれる仲間もいるが……どうだろうか。
以上、今日はあくまで「信者」としての「個人的な経験」を書いてみました。あくまで個人の見解ですから異論もあると思いますが、今の私の正直な想いなのでご参考になれば幸いです。
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