「望むものは、なんでも叶えてくれる」
人によっては、こんなセリフを聞けば顔を顰(しか)める人もいるだろうと想像する。
曰く「仏教徒はそんな自分の欲望を丸出しで神仏にお願いするのは否!」ということだろう。
しかし、仏教の護法神である「聖天さま」と「荼枳尼天さま」には、そんな「望むものは、なんでも叶えてくれる」という修飾語で語られることが多くある。
これについては、私なりの「答え」をかつて記事にしたこともあった。
要約すれば、祈願することで施主の行動変容が起こるか否か。施主さまが何らかの進歩をしてくれなくては。むろんその進歩は仏道に歩みを進めるということ。
施主様の行動次第といっても、願いが通じれば天尊は「進歩(変化)」を起こさざるをえない環境(状況)は用意してくれる。多くの場合、きっとそれは辛い経験になる。そしてきっと荼枳尼天さまが怖いのは、用意してくれた環境(状況)に容赦がない(かもしれない)ところだろうか。
荼枳尼天が左手に持つ宝珠は「なんでも叶う」の象徴。では右手に持つ「剣」は?
「何でも叶う」というフレーズに潜む「魔」をぶった切るもの。つまり冒頭で書いた「何でも叶う」と聞いて顔を顰めた方が感じた「魔」の正体。平たく言えば「ただただ自分だけ得したい、儲かりたいエトセトラ……」という我利我利亡者的思考。
そんな「魔」が顔を出せば、その「剣」でバッサリやられる。まだやられればいい。それに気づけるチャンスもあるだろうから。
もし荼枳尼天のお像や、御影があるなら「宝珠」ばかり見つめないで、「剣」にも注目して自身の「身勝手」という名の「魔」を切ってもらうイメージを持つのがいいと思う。
さすれば、おそらく祈願は叶いやすくなる可能性があがる。「魔」がある輩の願いはきっと叶えないだろうから。逆に言えば「魔」が消えれば荼枳尼天さまも安心して願いを叶えてくれるに違いない。
私が荼枳尼天さまを何かと話題にするのは、荼枳尼天が准胝仏母ファミリーであること(焔摩天の眷属)もあるが、信者時代から『なにとぞ守護神になってくだされ!』とお願いし続けている神さまであることが大きい。
ただ、今は自身の守護神でとどめるのではなく「化他」、つまり信者さまのためにその神通広大なお力を発揮していただきたいと思う様になっている。
だから、先に書いたような天部尊にお願いする際に、注意すべきことなどをしっかりご指導させていただきながら、荼枳尼天の祈願(般若理趣分によるご祈祷)をおいおいスタートしていきたいと思っているのだ。