「特に叶えたい願いはないけど、神仏に向き合いたい」
普通祈祷寺院へは、「願いを叶えるため」という目的で訪れる。
我が道場はむろん「祈祷道場」なので「願いがない」と言われれば「用はない」という話になりそうだが、実は准胝院には割とこのような想いの信者さんがいる。
昨日、参拝にいらした方もそうであった。
特に困りごとがある訳でもない。どうしても叶えたい願いがある訳でもない。
「でも神仏を拝みたい」
この根底には何があるのか?を考えてみる。
「足るを知っている」
そういうことだろうな、と思った。
その心は「謙虚」から来ているのかもしれないし、「自立しているから依存心が少ない」のかもしれない。人よってその理由は様々だと思うが、いずれにしてもただただ利益を追い求める人よりは正しい姿に思える。
私も過去には多くの仏像を求めたが、その理由は「利益が欲しい」「願いを叶えてほしい」ではなくて「その尊像が拝みたい」というものだった。
だから私のブログの記事からそんな「拝みたいという想いが根幹にある」ことを読み取ってそのような方が集まるのかもしれない。
そうは言っても、祈願をしない方がいいという意味ではないですよ?
だって私は祈願道場の教師ですから、どんどん祈願してください(笑)
それが「ご縁」「方便」となって仏道に進める人もいる訳ですから、それはそれで重要なプロセスだと思います。
参考記事
https://ryona.hatenadiary.jp/entry/2021/03/24/215129
ちなみに昨日参拝にいらした方は、元々「荼枳尼天」の信者さん。その後に「准胝仏母」さまの信仰にたどり着いて当道場とのご縁が出来たとのこと。
荼枳尼天は准胝仏母の「延命」の働きを補佐する「焔摩天」の部下ですからいわば准胝ファミリーの一尊。その信仰にたどり着いたのは偶然ではないと思います。
さて、そろそろ、今日の結論。
「願い」の根幹に「神仏を拝む」ということを今一度意識する。
「足るを知る」ことを意識する。
ではまた。
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