信者さまから「果物」のお供物をいただいたが、その多くは「柑橘系」でした。
「柑橘系」のお供物といえば?
そう「荼枳尼天」ですね。
以下参考引用
『(荼枳尼天の)特殊な供物としては柑子(こうじ)が使われるが、これは実は肝臓の意味である。果実としての柑子は柑橘類であるから黄色く酸っぱいので、これを荼枳尼天の好物である人黄(人間の肝臓)に見立てるのである。それというのも、肝臓は五行思想では酸っぱいものということになっているため、黄色で酸っぱい柑子がふさわしいとされたのであろう(「天部信仰読本」羽田守快著(青山社))』
かつて柑子は一年中、手に入るものではないので「彫り物」で代用してもよし、と儀軌にあると師僧より聞いた。
むろんこれは「彫り物」で神仏を「だます」訳ではなく、ポイントはその供物は「行者のイメージ」を通じて天部に届くということ。だから「人間」である行者が「食べた経験があるもの」でなければそのイメージは届きようがないともなる。
師僧の参考記事
イメージ力がある人、専門的には「観想が上手な人」は「彫り物」でもイメージを神仏に届けられるだろうが、やはり「実物」が目の前にあった方がイメージしやすいには明白だ。
だから個人的に、供物は目的の神仏の目の前にあって、さらに行者(私)の視界にしっかりと捉えられる場所において、という工夫をしている。私の場合はこれくらいしないと「観想」が上手くいかないから。
さらには「行者」でなくもと「信者さま」でもお勤めの時に「イメージ」を持つことも必要かな、とも思う。
その場合(信者の場合)、行者がやる修法のように「一発勝負」でなく、「継続」を力にすることも重要だと思います。
以下、参考記事です。
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