地道に密教修行

天台寺門宗の祈祷寺院にて密教の修行しております「亮和(りょうな)」と申します。修行、信仰を通じて感じたことなどを綴っていきます。※過去(本格的な修行前)に「地道に観音信仰」というブログを運営しておりました。どうぞ気楽にコメントいただけると嬉しいです!

お供物はどうする?

 皆さんは、神仏へのお供物はどうされていますか?

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 密教の行(祈祷)では、お供えするものは儀軌に従うので問題ないのですが、私は信者時代、割とこれに関しては悩みました。

 なぜ悩んだかと言えば……「苦手」だからです。

 私は実生活でも記念日に「プレゼントを渡す」という気の利いたことができない。だから妻は既にこういったことを私に期待することを、とうの昔に諦めてしまった。

 ……それに倣うように神仏に対しても事あるごとに気の利いたお供物をお供えするということが苦手だった。だから例えば旅行へ行ったときに神仏へのお土産ということが出来ない。

 要は気が利かないのだ。

 特に守護をお願いしている荼枳尼天や祭壇にお祀りしている歓喜童子や聖天様の御札といった所謂「実類」と言われる天部尊は「人間に近しい」尊格として、人間の「気持ち」をより大切にされるという話を聞く。

 もちろんそんな行動を直していくのも修行だとは思うが、もう一つのやり方として「自分に合った方法」を探すのもありだと思っている。

 私の場合は「気の利いたときに」ということができないので、いっそ「毎日お供えするものを決めてしまう」という方法にした。

 具体的にはご本尊への「閼伽(水)」「米」とは別に、荼枳尼天には「お揚げ」「酒」、歓喜童子と聖天様には「大根(輪切りしたもの)」と「酒」を毎日お供えすることにした。

 これは裏を返すと「機械的にやる作業」と見られてしまい「心がこもってない」という批判が聞こえてきそうだ。特に上述した「実類」の尊格からは気持ちのこもっていない「機械的にお供えした供物」にご不満が出そうでもある。
 しかしである。「機械的」とはいえ毎日お供えするという「行動」には僅かながらにも「気持ち」は乗ってるはずと思うのだ。人間はロボットではないのだから。
 それにやってみれば分かるが、毎日というのは小さな手間でも大変だし、供物を切らさないようにいつもストックしておくという意識も必要だ。

 正直話せば「毎日欠かさず」というわけにはいかず、時折さぼってしまったりするがそれでももう5年以上も「毎日の供物」を継続してきた。

 5年以上続けてみると、いろいろ「感触」として分かってくることがある。まず自分の意識として「毎日お供えしてきた」という自負のようなものが生まれる。

 それに加えて今となっては上述の二天尊との「絆」はより「強くなった」と「日々」実感するところである。

 やっぱり「機械的な行動」でも僅かに「心」が動いていれば次第にその気持ちは蓄積されると思うのだ。

 仏教的に言えば阿頼耶識に「熏習」が起こっているに違いない。

 言ってしまえば「継続は力なり」という使い古された諺に帰結するのだが、皆様にもお勧めしたい「お供物」のやり方としてご紹介させていただきました。

 

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