2月中旬から今に至るまで、会社の激務に忙殺されていた。
私の場合、見方によっては「ビジネスマン」「密教の行者」という二足の草鞋を履いているように見える。
ただ、私の中では全くそうは思っていない。
仏教というのは「生き方」を学ぶもの、という「理解」があればおのずと答えは出てくると思うのだ。
例えば私が会社で仕事をしているときはあくまで「ビジネスマン」だから「仏教徒」ではないのか?仏教徒でないなら「振舞い」もビジネスマンに徹すればいいのか?
そんなはずがない。
ビジネスと宗教を同じ軸で捉えるのはとてもナンセンスだ。
だからビジネスだって「生き方の修業」であるわけだから、当然仏教徒である私はビジネスも仏教の修業なのだ。
それを「ビジネスはビジネス、仏教は仏教」なんて二つの人生を歩むことなんて出来るものか。
だからこそ。
今のような激務にさらされたとき、「その意味」をより強く考え、行動することが重要なことだと思うのだ。
言い方を変えれば「ただ忙しい!」と悲鳴を上げ、愚痴を言うのか?「困難という成長の機会を与えられているのか?」という「どうとらえるかの違い」だ。
「激務」というのは、時間がなくて仏教徒であることがないがしろにされることではなく、むしろ逆でより深く仏教に向き合わなければいかないタイミングともいえる。
いや、そう積極的に捉えるのだ。
例えば、皆さんも……
「今日は忙しいから、”仕方がない”からお勤めは休もうかしら?」
という発想が起きた、としよう。
さすれば、まさにその時「学び」の瞬間であることを意識すべきだ。
これは別に「より厳しい環境に身を置け」とか「どんなに忙しくてもお勤めはサボるな」ということを言っているのではない。
激務でどうしてもお勤めができないなら、時に休んでもいいと思う。しかし「ただ休む」のではなく「学び」を伴ってほしいのだ。
「なぜ忙しいのだろう?」「これに何のメッセージがあるのだろう」
常にそんな発想を持ちながら隣に「仏さま」の存在を意識できているのかどうか?
それこそが「生き方」を学ぶ「仏教」であると思うからだ。
だから私はどんなに忙しくても「ああ、時間がなくて行ができない。修行が進まないよ」とは思わないようにしている。
そうではなくて「ああ、今まさに修行させていただいていると」と感じることにする。
……と、偉そうに言っているが、なかなかできるものではない。このブログはいつもそうだが「自戒の意味」を込めて記事にしていることが多くある。
でも、例えできなくても自分への攻め心はなくすことも大事だと思う。真面目な人ほど自分を責めやすい。
「サボる」自分に気づいたら、自分を責めるのではなく「気づけたこと」に感謝する。
よくこのブログではよく「気づき」という話をする。
仏教に生きるということはつまりどれだけ気づけるか?ということでもあると思うのだ。
だから「忙しい」というイベントの中で、ダメな自分に気付く。それも学び。
それでOKでいいじゃないか。
その気づきだけできっと仏さまは喜んでくださっている。
そう思いましょう。
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