「英雄たちの選択」という歴史番組を何度かこのブログでも取り上げ、私はこの番組の「大ファン」であることをお伝えした。
その番組でつい先日、「鑑真」の特集があったので、仏教徒の私としてはとても興味深く拝聴することができた。
この番組の特徴は「すでに定説になっていること」はざっくり解説しつつ、さらに「最近の新説」とか「新たな仮説」ということを主要テーマに、その専門家たちがかなりエキサイティングな議論をするので、エンターテイメントとしてもとても面白い。
今回の「鑑真」について、今まではあまり知られていなかった「なぜ聖武天皇は鑑真にこだわったのか(他の高僧ではいけなかったのか)」ということについて興味深い新説が紹介されていた。
興味ある方はNKKのオンデマンドで見れるのでご覧になってみてください。
さて、「歴史」については専門外の私がこの番組の内容をここで解説しても大したレビューはできないと思うので「仏教徒」視点で一つだけ「考えさせられた」ことがあったのでそれを紹介したいと思います。
鑑真は日本への渡航を「五回」も失敗して、その過程で失明までしまった話はあまりに有名です。歴史教科書でも習うし、井上靖氏の小説「天平の甍」を読んで涙した人もいるかもしれません(映画化もしてますしね)。ちなみにかみさんは井上靖の歴史ものは結構好きらしく、「天平の甍」も好きな作品の一つだそうです(私は読んでいませんが:汗)。
さて、私はよくこのブログでも「神仏からの声なき声」に「気づく」ことの重要性を声高に語ってきました。時にはユングやミンデルといった天才心理学者の論説まで引っ張り出してきては「日常起きる何気ない出来事にも意味ある。それに気づいていく生き方こそ神仏と共に生きることだ」という話を力説してきた。
それが間違っているとは(今のところ)思っていはいないのだが、この鑑真の話を突き付けられると流石にこの生き方に「手放しに」しがみ付いていてもまたそれは違うのではないか?と思えてくる。
つまり「神仏の声なき声」を意識するなら、普通に考えれば「五回も失敗した」「失明までした」という困難に直面すれば「神仏からの声なき声」は当然ですが「日本には行くな」といくことを示唆していると解釈してしかるべきだと思われます。
当然鑑真だって「仏さまのご意志は中国に残れという事か」と何度だって思ったであろうことは想像に難くない。
では果たして、鑑真が遭遇した、ここまで明確な「困難」にぶつかっても「それを推してまでその目的を達成しよう」としてしまうのは「神仏の意識に背いて自分のエゴをごり押しする」という、ネガティブな態度ということになってしまわないのか?
結果、鑑真は最後には日本への渡航を達成し、日本ではじめて「戒壇」をつくり、正式に「戒を授ける」という日本の仏教史において歴史的な「功績」を残すことになります。
この「英雄たちの選択」の番組内では、その功績は日本の仏教界のみならず、日本という「国家ができる」ためになくてはならないターニングポイントだっとすら解説していました。
……そんな偉大な功績は「日本に渡航する」ことを諦めなかったから達成したということ。言い方を変えれば、一見すれば「神仏の意向に背くような」無理強いをしてとった行動が最後にはそれが正しい判断だったという事になる訳です。
私はちょっと困難にぶつかると「これは止めた方がいいという神仏からのシグナルだ」と臨機応変といえば聞こえはいいが、結局は「安易に」方向(方針)転換をすることはざらにあります。
だから、今回、この「鑑真」から学ぶべき教訓は「諦めるための言い訳」に「神仏」を「安易に」持ち出すべきではないということでしょうか?
もしくは「時」という要素をもっと意識することでしょうか?つまり「それはやめておけ」ではなく「『今は』やめておけ」という柔軟性を持たせるということ。
この話を考えれば考えるほど「神仏の意向に従う」ということの難しさを感じました。
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