准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

「目に見える治療」と「目に見えない治療」

 医療機器の説明を病院向けに行う「講師」の仕事をしている関係で、どうやっても医学知識の習得ということがついて回る。

  医学書というと基本的には専門家向け(医者向け)なのでその多くは難解でなかなか読みこなすのは苦労するのですが、中には高度な話をしているのに読んでみると読み物としてもとても面白い本もあります。まあ、私もそんな本でないと読めないんですけどね(^^;)

  さて、そんな最近読んでとても面白かった本に「心不全管理をアートする~脚本はどう作るか」(猪又孝元著 メディカルビュー社)という著書があります。

  流石にこのブログでこの医学書を「面白いので読んでみて」とは言いませんが(笑)、この本は「祈祷」ということを考える上で「考えさせられる記述」がありましので少し紹介してみたいと思います。

  そのまま本文を引用すると医学説明が多くなって一般の方には読みにくい記事と成ってしまうと思うので、なるべく医学的な記述を最小限にして誰でも分かるように私がまとめてみよと思います(その分、医学的記述の精度は保証できかねますのでご了承ください:それでもなるべく嘘にならないようには努力します!?)。

  私が「祈祷」に大いに関係すると思われたのは、本書での記述にある「目に見える治療」「目に見えない治療」という部分です。

  タイトルにある「心不全」という病気について知らないと、この話題を理解しにくいので少しだけ解説をしてみます。

 若くして「突然死」されたスポーツ選手や芸能人のニュースで「虚血性心不全」とか「急性心不全」なんて文字をご覧になった方も多くいると思います。

  心臓と言うのは全身に血液を送る「ポンプ」の働きをしていますが、「何らかの原因」でこのポンプ機能が損なわれ、症状が全身に及んでしまう病態のことを「心不全」と言います。

  「何らかの原因」で一番多いのが「急性心筋梗塞(急性冠症候群)」という心臓に酸素と栄養を送っている血管(冠動脈)がつまって、心臓の筋肉が壊死(えし)を起こしポンプ機能が損なわるパターンですね。これを発症すると救急車などで病院に運び込まれるまでに30%の人が亡くなってしまう恐ろしい病気です。

 

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 さて、この図書では「心不全の治療は難しい」と書かれています。

  その「難しい」とされる理由は本書に色々具体的に書いてあるのですが、その一つが上述した「目に見える治療」と「目に見えない治療」があるという部分です。

  さあ、ここからは皆さんもイマジネーションを働かせて「祈祷」という場面を想像しながら読み進めてください。

  心不全の場合の「目に見える治療」をまず考えてみます。

  心不全、つまり心臓のポンプ機能が損なわれると「何が困るのか?」というのは大雑把に言うと2つあると書かれています。

  一つは全身に血液を送れなくなるので、他の臓器に酸素と栄養がいかなくなるという不具合(特に脳とか腎臓とか血液が沢山必要な臓器が深刻)。

  もう一つは、ポンプ機能が弱っていると心臓の中にある血液を全身に出し切れなくなるので心臓に血液が戻れなくなってしまいます(心臓が血液でパンパンのイメージ)。

  すると心臓の上流にある「肺」に血液がたまり(肺うっ血と言います……レントゲンで肺が白く映るパターンですね)、さらそれが進むと血液が体中に滞留して、全身が「むくむ」ということが起きてしまいます。

  従来の治療(古典的治療と呼ぶそうです)では、心不全を改善する際には手っ取り早くこの二つの症状を取り去ることに専念しました。つまり心臓のポンプが弱くて全身の血液が足りないなら「心臓を強く打たせればいい」ということで「強心剤」という薬で無理やり心臓を強く打たせるという方法が一つ。

 もう一つは心臓が血液を捌ききれないために全身に溜まってしまった水分を「利尿剤」で「尿として」体外に出せばいいという方法。この二つです。

  これがつまり典型的な「目に見える治療」ということになります。強心剤で無理やり心臓のポンプ機能を復活させているので一時的に全身に血液は巡るようになります。また利尿剤でむくみが取れてもしかすると肺のうっ血も回復しているかもしれない。

  こうなると文字通り目に見えて患者さんの容態が良くなるかもしれません。だから(意識が回復すれば)患者さんにも感謝され、家族にだって感謝されますよね。「目に見えて回復した」状態をみせられる訳ですから。

  ではこの患者さんは「これで一時退院」ということに運良くなったとしましょう。しかし、多くの場合、すぐに「再入院」となって結果的に回復することなく亡くなってしまうことが多くあるといいます。

  そして最近分かっていることは、上述したような「目に見える治療」というのは「長期的に見ると」かえって生存率を下げている可能性があるといいます。

  だから最近では、信じられないのですが「心臓を強く打たせない」薬(具体的にはβ遮断薬)を心不全に使うことで長期の予後が良くなるというデータがあると本書には書かれています。「心臓を強く打たせない」ということは言い方を変えると「心臓によくない薬」を使うということになります。「なんで?」と思われると思いますが、つまり心臓を強く打たせないということは「心臓を休ませてやる」という効果を狙うということだそうです。もちろんどうしても強心薬で強く打たせないとそのまま死んでしまうケースもあるので使い分けが難しいようですが、場合によっては心臓を休ませるという選択をすることで長期予後がよくなることが分かってきているそうです。

  この「長期予後ではよくなる」という部分が「目に見えない治療」として説明されています。つまり目の前で苦しんでる患者さんがいるのに一時的にでも「心臓によくない薬」を使う訳です。そして下手をすればそれが原因で心不全を悪化させるリスクもある訳です(=おそらくそうなれば患者の家族からは不審がられます)。

 また仮になんとかその場を凌げても長期予後に関しては「その治療をした医者」にとってはもう手を離れた患者になるので、実際にその後どうなったかを追いかけることはほぼできなくなるので「自分のやったことが正しかったのか」の確認もできないし、患者や家族からも「先生ありがとうございました」と言ってもらえないかもしれません。

 そういう治療をするということは医師のやりがいを感じる機会を失うわけで、そう言った治療選択をすることは非常に困難なのだということがこの本では書かれていました。

  さあ、どうでしょう?「その人の将来まで見据えて」という発想は、きっと宗教的なバックボーンが大きな力になりそうです。だからと言ってここで医師に対して「宗教を持ちなさない」なんてことを言いたいのではなく、私が将来祈祷をする際にこう言った発想を持てるかどうか?という自問自答をしてみたわけです。

  例えば「その信者さんが一時的に金もちになることが、将来的にみてもその人は幸せになるのか?」「その信者さんが好きな異性と結ばれることが、将来的に見ても幸せなことなのか?」ということを自問自答できるのだろうか?ということです。

  「祈祷」をお願いする信者さんの多くは「目の前のこと」を叶えてほしいのだと思います。長期的に「家内安全」とか「身体健康」という祈願も当然多くあるとは思いますがより熱心に「祈願」をされるケースにはやはり「目の前のこと」が多いのかな?なんて思います。

  当然「目の前のこと」を叶えるということも重要だと思います。しかし、それがその人の将来まで考えて幸せなのかどうか?

  まあそこまで行者が介入する必要はなくて、神仏のジャッジに任せるというのが正解だとは思いますが、そうなった場合、その信者からすると「目に見えない治療」ということになるのできっと満足はされない結果になるのでしょう。

  この医師が問題にしていた「目に見える治療」と「目に見えない治療」という視点は、行者がそこまで介入するしないは別にして祈祷においても意識すべきポイントだと思ったのでした。

 

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