会社では、広い意味で「教育」部門にいるので社内教育を行うことも多くある。医療系という少し高度な知識を必要とする企業であるので例えば営業マンが一人前になるまでに習得しなければならない知識のハードルは高い。
「最近の若いものは」
いつの時代でも繰り返されてきたであろうこの台詞。
私も最近ではついつい口をついてしまうから、きっと歳を取ってしまったのだろう(苦笑)
決して「最近の若い人」ばかりでははく、私も若いころはそうっだように思う。若いうちは、経験もないし、もしかすると何故その勉強が必要かすら気づけないのかもしれない。
やる気のある社員は「やれ」と言わなくても自主的にやる。そんな社員は問題ない。ただそうではない社員をどうするか?が教育部門の責務でもある。
「いかに分かりやすいコンテンツを作って、時間をかけずに、分かりやすいプレゼンテーションで」
時に、そんな教育する側のスキルも問われ、やもすれば社員が育たないのは教える側の責任と詰められる。
私はこれについてはある程度、同意している。
「教える」が責務なら結果は「社員の実力」で測られてしかるべきだと思うから。
さて、以上は一般企業の話。
ここから今の話を全てひっくり返します。
行者の世界では、まったくこれとは違った世界が存在する。
この記事を読んで「厳しい」と思った方が多いと思う。
こんなことがあった。
「この人に○○(ある祈祷)やってあげなさい」
急にこう師僧に言われたことがあった。この祈祷は伝授され自行も終わっていたが、目の前にいる人にその場でどう拝むかの方法は知らなかった。
「いや、まだ習っていませんが」
そう答えると…
「やんども見てるからできるだろう!出来ないなら聞きなさい。教わるまで指くわえて待ってるつもりか!」
と怒鳴られたことがある。
これは「教育」ではなく「修行」だ。
だからここで私が「そんな理不尽な」と不貞腐れたら終了。
「学びたい」という意識がたりず
「待っていれば教えてもらえる」という甘えに気づけかなけれは成長は止まる。
これは師僧が指導を止めるのではなくて、自分の成長を知らず知らず自ら止めるという意味。
だからいつになっても気が抜けない。この「気が抜けない感」が常に付きまとう。それは精神的にきついかも知れないが、それこそ学びの原動力だとも思う。
「教育」と「修行」……似ているようで、実はまるで違うと思うこの頃。