開催に否定的な意見が多かった東京オリンピックも閉会になった。
私個人の意見としても反対派ではあったが、オリンピック開催中はTVで大会の結果を多くの機会で見聞きした。
コロナ渦での開催に反対とはいえ、出場選手が必死に競技する姿を見れば彼ら彼女らの頑張りにたくさんの感動を貰えたのも事実。
そんな今回のオリンピックで私が「奇跡」とも思えるシーンに出くわしてとても感動した。
それは「スケードボード・パーク」という競技。
私がたまたま見たシーンが日本の中学三年生「岡本碧優」選手が、メダルのかかった重要な場面で「失敗」してしまったシーンだった。他の日本人選手が金・銀をとるなかでむしろ優勝候補だった?彼女が失敗でメダルを逃すというシーンだったので、見ている方としては「この子だいじょうぶかな?」と心配になるほどだった。
しかし、彼女が転倒して仰向けで泣き崩れていると日本はおろか海外のライバルたちが彼女に駆け寄り抱き合い、皆で掲げて励ましはじめたのだ。
この「パーク」という競技には、他の競技にはない「独特の習慣がある」とこの時知るに至った。
他のオリンピック競技では対戦相手は「敵」であり、ライバルの失敗というのは自分が上に行けるチャンスな訳だから本人ととってはむしろ「こころでガットポーズ」という場面なはずだ。現に競技によっては相手のミスに歓喜する場面も多く見かけるし、それが悪いとも思わない。
しかしこの「パーク」という競技では競技者が失敗すると他のライバルたちが全力で駆け寄り励ましあうという「文化」があった。
泣き崩れていた「岡本碧優」選手がライバルたちの励ましで笑顔を取り戻す姿を見て、涙もろくなった私は不覚にも号泣してしまった(^^;
「自己肯定感が低い人は他人の成功を喜べない」
ビジネス系の「承認欲求」というキーワードを勉強するとよく目にするフレーズだ。
承認されれば他人を否定しない人間が育つという理屈だ。
ただ、ライバルの成功を耳にすると心がザワザワするというのは決して自己肯定感が特別低くなくても全ての人間が経験するという意見も聞く。
遥か昔、そもそもホモサピエンスという「種族」は、他のライバルたちを殲滅、駆逐しつくして生き残ったという歴史があると知った。つまり敵を「殲滅」してきたからこそ今の我々がいるのだ。
だとすればその我々の身体にあるDNAには「敵は駆逐するのが正義」ということが本能的にインプットされているはずなのだ。だからこそ、「敵」の成功は、自分の生命を脅かす脅威と本能的に感じとって、他人の成功を見れば「ザワザワ」してしまうのだろうと思う。
しかし、今の社会でそのDNAという本能むき出しで生きていくことは不都合であることが多いのは皆が知るところである。だから我々はその本能を社会に適応するためにコントロールする必要が当然ある。
宗教の教えだって、そんな智慧に違いない。
しかし、上述したビジネス書が語るように本能にプラスして「自己肯定感」が低くなるような経験をしてしまうと(虐待、いじめ等)、どうしても自分を守るための防衛反応が強くなり中々相手を称賛することができず「攻め心」が優位になってしまうという話をよく聞くし、実際にそんな人に多く出会う。陰口、悪口が絶えない人がまさにそんな人だ。むろん私だって、本能の罠にはまり悪口が頭を巡ることはいくらでもある。
今回の学びはホモサピエンスという「本能的な部分」と場合によっては「家庭環境」によってより強力に社会に出力してしまう攻め心を回避する手段として、スポーツの「習慣」「文化」として学ぶ機会が現実に存在することが分かったこと。
頭では分かっているがなかなか抗えないのが相手への「攻め心」だ。
パークというスポーツで身をもって「行動して」見せてくれた彼ら彼女ら(そして彼ら彼女らはみなまだとても若い)。
「行動で示せる習慣、文化」という環境を作る。
これはもちろん我々大人の仕事であることは間違いない。
我々大人が他人の悪口で刹那的に自己肯定感を満足させている場合ではない。
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