ペット
餌
飼育
これらの用語を「猫のSNS」で不用意に使うと「叩かれる」ことがある。
なぜだかわかりますか?
猫は「家族」だから「ペット」ではない。
猫の「餌」ではなくて、猫の「食事」。
猫を「飼育している」ではなく「一緒に(家族として)暮らしている」
ここまで言われてしまうと「いやいや、それは言い過ぎ」だと思うが……
ただ「分からないでもない」と思う部分もある。
猫や犬は「家族である」という部分に大いに同意するからだ。
…… …… ……
昨日は長野県飯縄の奥の院に行くという記事を書いた。
もともと仙台に在住していたこともあり、奥の院での祈祷に同行させてもらうことははじめてだった。
AM4時に出発して8時半くらいに院に到着すると、一息つく間もなく即座に壇の準備をし、準備が出来た壇から修法が始められた。
師僧が最初に理趣分祈祷に入り、続いて上願寺の藤川先生が聖天供、同じく私が護摩供とほぼ同時に続いた。その後、師僧は信者さまへ護身法の伝授をし、さらに本地護摩まで。
私が護摩の最中。
師僧の理趣分祈祷が終わった後だ。師僧が誰かと電話で話しているのが聞こえていた。どこか「慌ただしい空気」を感じたのを憶えている。
後からその時の電話は、お寺の猫、つい先日腎臓が悪いと診断されていた猫「レオン」が境内で息を引き取っていたとの連絡だった。
聞けばレオンを発見した方は、普段はあえて行く場所でない「その場所」へ、その日に限って偶然足が向いたと言っていた。
「早く見つけて」
「レオン」のそんな声をその方が感じとったように思えた。またレオンが発見されたであろう時に師僧が理趣分祈祷をされていたことが何らかの影響があったとも咄嗟に感じた。
行者は修法のさなか、仏のおわす深い層へ接近する(交わる)。そこは「レオン」の「声」が存在する場所でもある。
だから師僧は意識はせずとも、無意識に「家族」のそんな声を拾い上げて、その方に足を向かわせたのだろうか……そんな「想い」が去来する。
そんなことを思っていると笑いながら「胡蝶の夢」のエピソードを話す声がする
『はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか』
発見された方は自分でそこに向かったのかもしれない。
師僧がそこにその方を向かわせたのかもしれない。
もしかしたらそこに向かっていたのは「レオン本人だった」かもしれない。
「自分が自分に向かう?」
意味が解らん?!
その深い領域では、互いの「意識」は混ざりあって「一つ」でしかない。だったらそのことが起きたことに意味があって「誰が」なんて想像に意味はない。
そう言って、私のいつもの分析癖をその声があざ笑ってるような気がした。
もしかして……
笑ったのは……君か?
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