家族へのご祈祷が可能かどうか?というご質問をいただきました。
これについて簡単に「イエス」「ノー」と答えることはできない。
例えば人型加持のお札(護符)であれば、ご家族の分をご依頼いただくのは全く問題ございません。
ただそれが祈祷になると、「ケースバイケース」というのが一応の答になるのだと思う。
「難しい」原因のひとつが、家族とはいえ「他人である」ということ。
だから本人の「願意」を飛び越えて、例え家族とはいえ本人以外の方から「こうしたい」という願いを聞いてもそこに本人とご家族との「齟齬」がある可能性を想定しないといけない。
願主様を疑うわけではありませんが、例えば「子どもの〇〇大学合格祈願お願いします!」と言ってるのが本人ではなく親だとすれば、子どもが本当は別の大学を希望しているかもしれないし、もしかすると就職を希望しているかもしれない可能性が残る。
その本心を直接本人から確かめられない以上、親のお話を100%真に受ける訳にはいかない。
それでも例えば「病気」と言う場合には、「病気が治りたくない」という人はあまりいないので本人、ご家族との間の願意に齟齬は生まれにくいので問題ないと思われます。だから家族の病気祈願は問題ないと思います。
つまりケースバイケース。
ただ、もう一つ重要な問題があります。
おそらくこちらの方が「やっかい」だと思います。
それはその祈祷を受ける「家族」に信仰があるかどうか?です。
祈願をして、その願いを叶えるためには「本人」を軸に神仏の力が動くので、本人が神仏の働きを受け取る基盤がないと祈願は効きにくいということになります。
祈願はあくまでもその人が仏道を歩むきっかのための方便であり、またその人が仏道の歩みを早めるための修行のきっかけでもある。
だから信仰がなく、本人が神仏の働きを受け取るための「間口」を開いていなければ、どうにもならない。
ただ、それでも「近しい家族」であれば希望はある。
それは近しい家族の場合、仮に本人の信仰がなくてもその影響を受け取る可能性があるから。
つまりそれは、その祈願をきっかけにそのご家族に信仰心が芽生えるなどの変化が現れるかもしれないということ。裏を返すと信仰心の芽生えが全く期待できないとなると……その祈願は難しいのかもしれない。
「寝たきりで意識もなかったら自分では祈願をお願いできないし、信仰心が芽生えるなんて悠長なこと言ってられないだろう?」
そんなツッコミがあるかもしれない。
これについても幾つかの答があると思われる。
ひとつは意識のないその人が「回復する」事でそれがきっかけで仏道に触れる機会を得られるかもしれないなら、十分期待できる。
もう一つはこのブログでも何度もネタにしているが、人間は「無意識」という存在があって、それはむしろ「顕在意識」よりも人間に影響力があり、その理由の一つが神仏へより近い領域だから「無意識から感応する」という可能性もある。これは意識があるないは全く関係がない。
ただこの場合は、その人の「本当の願い」と「顕在意識の願い」が必ずしも一致しないケースがどうやらあるから……これも実は「やっかい」なのだ。
これについては卑近な例で申し訳ないが、私の実体験を紹介したいと思う。
私は過去に家族の病気の祈願をしたことがある。
具体的には「母の癌」だ。すでに拳大の腫瘍があり、肺、肝臓に転移があるステージ4の大腸癌だった。医学的には「なすすべなし」の状態だった。
母には信仰はなかった。
だから家族である私が母に代わって祈祷のお願いをした。
確かに母は癌が見つかってから七か月でこの世を去った。
ただ、おそらく母の真の願いは叶ったと私は納得した。
母が入院してからというもの、父は毎日看病につききりだった。実家は埼玉だったので当時仙台在住だった私は看病は父に任せるしかなかった。
どちらかというと「マイペース」な父は自分の好きなことを好きなようにする人間だったから、母との仲は良好だったが普段は二人でゆっくりと言う時間はあまりなかったように思う。
ただこの時の父の看病は凄まじいもので病院スタッフすら舌を巻いた。
朝、6時には病院に入り、人工肛門の交換も全て父がやり切った。ナースが何度も「私たちがやるから」といっても父はきかなかった。痛いと言えばマッサージをし、何が食べたいと言えばすぐさま買い物に行き、夜遅くに自宅に戻る。そんなことを7か月間続けた。
……そんな父の姿を見た私は、何度も自分に問うた「私の同じことができるか?」そして「いやここまでは到底できない」と。
私は姉と私の二人姉弟だが、一人息子なので母からの愛情は一番あったのではないか?という自覚があった。
だから臨終の間際、まだ母の意識がまだうっすらある時、私がそばにいてあげるのが一番母は嬉しいはずだと思っていたのだが……
違った。
確かに私が声を掛けると、母は少しだほほ笑んだ。しかし父が声を掛けた時の表情とはまるで違ったのだ。父が声を掛けた時の母の表情は当に安心したような、ここからの笑顔だった。
母は最期の最後で、父の最高の愛を感じたに違いない。
「ああ、これがきっと母が最も欲しかったものだったんだ」と私は悟った。
「助けたい」と私の願いで祈願をお願いした。しかし母は、そんな私の願いではなく臨終の間際に「本当に欲しかったもの」をついに手に入れた。
医学的にはとても助からない。でもそんな状況にあって……もっとも母の望むものが叶った。
そんな「粋なこと」をやってのけたは「聖天さま」だった。
私はこの体験があるから、例え家族でも「本人が望むもの」というのはやはり「本人しか分からない」と思っている。
もちろんその家族の本当の想いを受けとれる方もいると思う。
だから「ケースバイケース」ということなのだ。
★ご相談はこちらから・准胝仏母道場リンク★
記事が面白かったら
クリック↓お願いします!