少し前の記事で「気が視える」ということを書いたが、「それは超能力ってこと?」と質問があったので、それについて私なりの「解釈」をしてみたい。
あくまで「個人的解釈」なので、「仮説」に域をでないが、参考にしてほしい。
普通、「気が視える?」なんて言えば……
「そんなの気のせいだろ?t……”気”だけに」
なんて冗談を交えて言われてしまいそうだ(笑)
仮に、そう言われてしまっても、私はこれに関しては、おそらく「気のせい、つまり単なる思い込みではない」と思っている。
かつての中国武術の同門で私のように「気が視える」と主張する何人かに「どう視える?」と聴いて確認したことがある。
すると「その答え」は、皆それぞれが決して曖昧な「見え方」ではなく、細部に至るまで「私と同じように見えていた」のだ。
具体的には「指の周りに白い糸がまとわりついているように」見えたり、腕の周りから「陽炎」のようにユラユラと何かが立ち込めるように見える……といった感じだ。
ただ、常識的に考えて「気」というのは物理的なものとはまた違うので、我々が目にしたものは「物理的な何か」ではないのは明らかだ。
では霊的な何か?と問われれば、「それも違う」と思うのだ。
結論から言うと私は「共感覚」に近いものかな?と想像している。
共感覚とは、『ある1つの刺激に対して、通常の感覚だけでなく 異なる種類の感覚も自動的に生じる知覚現象』と説明される。
例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、味や匂いに、色や形を感じたりする。複数の共感覚を持つ人もいれば、1種類しか持たない人もいるそうだ。
気のトレーニングは、もしかすると「後天的に」そのような能力が開発されるのでは?と思うのだ。
例えば、身体(最初は主に手、腕)に「気」を感じるために、なるべく力を抜いて筋肉の感覚、身体感覚を排除する。そうすることで「気」というあいまいな感覚はより捉えやすくなる。
同時に「気」の感覚を身体各部で感じるために目を半眼にするが、するとあたかも体の内部を見ているような錯覚が生じて、トレーニングが進むと眼からの視界情報がキャンセルされるようになる。
これは瞑想が進むと同様の現象が起きると思うが、それに近い。
気のトレーニング中は手の「触覚」とか「体性感覚」に集中するが、この状態で眼からの視覚情報がキャンセルされると、今感じている「触覚」「体性感覚」が視覚情報に変換されるのではないか?という可能性が見えてくる。
そう考えれば、これも「幻視」の一種なのかもしれない。
だから私は「気が見えた!」というのは決して超能力という特別な能力と「はしゃぎたてる」ことはしない。
ただ、気のトレーニングが進み、気の感覚がハッキリ感じられるようになった、ということと、眼からの視覚情報がキャンセルされている、という状態はどちらもトレーニングが進んでることを意味するので、そのトレーニングが順調に進んでいるという「バロメータ」にはなるかな?とは思う。
そうはいっても……
この「気が見える」のが、必ずしも「自分の気」だけではなく「他人の気」も見えたりするのが不思議といえば不思議だ。
その際も、自身は「気功」をしている状態であるから、他人の気を「自分が感じている」という可能性はあるので、そういった意味では「自身が感じている感覚」を視覚情報に変換しているということに変わりはないと思う。
ただ、その場合は、前提として「他人の気も感じることができる」ということになるので、その部分には少しだけ超常的な要素が関与する可能性があるのかもしれない。
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