少し前になるが、九千房政光氏の「リアルな仏像」がヤフーニュースになったことが話題になった。
九千房政光氏は中学校の美術教師で2018年の初めから仏像を作り始めたそうで、最終的には現代版仏像を目指しているそうです。
ご覧の通りな「超リアル」な姿故に賛否が巻き起こった。
私が感じた「賛否」の印象は「美術品」としての視点ではひたすら「賛」の評価が多く、逆に「宗教的視点」からは「否」の評価が多かった印象。
作者はさすが中学生の美術教師であるからか、その技術は高すぎて驚嘆するしかない。
ただ仏教的視点を持つ方の大方の感想は手厳しく「仏のコスプレにしか見えない」というものだった。
きっとその心は、仏は人間ではないので、あまりに「リアルな人間」に寄せてしまうと、我々は「美しい人間」に見えても「美しい仏」には見えないということなのだと思う。
私の個人的な感想も、その技術には上述のおとり驚嘆するほどに超絶リスペクトなのだがでもそのお像は「仏」ではく「人間」に見えてしまった。
まずは、九千房政光氏がそれを「美術品」として制作しているのか?「礼拝対象」として制作しているのか?がわからないと議論にはならないとも思った。
もしそれが「美術品」としてならば、我々がとやかく言うことでもないと思う。
ただ礼拝対象ということであれば、色々意見はでてくるのだと思う。
個人的な感想としては「儀軌」に忠実なのか?という部分。このお姿が天部尊であれば、また違った評価があったかもしれない。
例えば弁才天、吉祥天など。
しかし、これがリンクページにあったように大日如来や弥勒菩薩、観音菩薩の身体が女性に作られてるのを見るとやはり違和感を覚えてしまう。
ただ「よりリアルである」という事に関しては、例えば「慶派」が登場した当時は、その斬新さから批判の声もあったのかもしれない。ただ当時の仏師は「得度」していたはずで「儀軌」に忠実なのは「マスト」だったはずだからその違いはあると思う。
逆に言えば「それ(儀軌に忠実)」さえあって、その姿に「仏」を感じるのであれば、「リアルが嫌なのか、好きなのか」は、最終的には拝む側の感性であって、どんなお姿でも「これは仏に見える」と言えばそのお像は「人間像」ではなく「仏像」になり得るのかもしれない。
九千房政光氏の「お像」も美術品としての展示品ではなく、例えば薄暗いお堂に安置され、壇を美しく荘厳し、ウソクの灯だけの光の中で見上げた時を想像すると……
もしかするとその時はじめて「仏」の顔が見えるかもしれないとも思った。
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