「所作(しょさ)」の重要性を話したいと思います。
時に所作が綺麗な人に出合うことがある。
卑近な例を出すならば、亡き母は裏千家茶道の師範だったので、その姿を思い出せばそんな人の一人だったと思い出される。
繰り返しによって培った「動作」。
それが日常的に、そして無意識的にまで洗練された時、その「動作」は「所作」に変わる。
密教の修法は、一連の「動作」を行うことで自身が整っていき、その先に神仏との感応道交が成立する。
……私レベルでもそれは分かる。
だから密教の修法はたんなる「動作」ではなく「所作」に他ならない、と思うのだ。
壇に上がり、所作が整う。所作が整えば神仏との感応道交が起こり、仏は私になり、私は仏になり、すなわち即身成仏となる。
「では壇を降りたら?」
そんな疑問を持つことがあった。
これは禅でも同じことが議論されると聞いたことがある。
つまり禅で無我の境地に入っても、日常に戻ったらただの人にもどるの?という疑問だ。
私は「所作」とは、繰り返しによって培われたものと定義した。
その繰り返しが日常になり、無意識的にまでなった時、その「動作」は「所作」になる……つまり、壇に上がったときだけでなく「日常に般化(一般化)」する。
だから「日常でも」は神仏に繋がり、そして即身成仏になれる可能性。
少なくとも私はそう考え、修法することにしている。
そんなことを思っていたらチベットの密教分類法に、初期密教経典のことを「所作タントラ」と呼ぶ事を思い出す。タントラとは一般的には密教経典のことを指す。
という気もするが……
ここからは私の勝手な持論を思い切って書いてみる。
これを上述のチベット密教の分類に当てはめると大日経=行タントラ、金剛頂経=瑜伽(ヨーガ)タントラとなる。
ものの本を読めば、上で私が話した所作~即身成仏という段階はむしろ行タントラ、瑜伽タントラを含む状態かもしれない。
このことを改めて考えてみると、天台密教の三部秘経では『大日経』『金剛頂経』の他に『蘇悉地羯羅経』が「教主」として重んじられることに説得力が増す。
『蘇悉地羯羅経』は天台では重んじられても一般的には初期密教経典に分類される。つまり所作タントラだ。
ただ、先に「所作」の先に「感応道交」が起こり「即身成仏」が起こり、それが日常までに影響を及ぼすとするならば、この「所作」を突き詰めれば『大日経』『金剛頂経』の行タントラ、瑜伽タントラを包括するだろうと思われるからだ。
あくまで勝手な持論だが、少なくとも私は所作をしっかり深めていくために今の修法を丁寧に繰り返す。
この方法に間違いはないのだと思う。
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