准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

雲座はご存知ですか?

 来迎図では沢山の仏さまが雲に乗ってやってくる絵は多くの人も見たことがあると思う。しかしこと彫刻となると阿弥陀三尊像でも雲座まで作っている例はそれほど多く見かけない。
 有名なところとしては平等院鳳凰堂の「雲中供養菩薩」でしょうか。
 天部尊では水天や荼枳尼天で見かける。

……と言う事で「雲座」に挑戦しましたが……
 お手本があまり無いので難しい。

 苦労して作った割に「雲」に見えない……
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 まだまだ補修が必要だが、最後は彩色で何とか「雲」らしく見せるしかないかな。

『古今著聞集』と『刀自女経』

  刀自女経という荼枳尼天の功徳を説くお経について何度か触れたが、私も自分なりに調べていく中で下記のような論文を見つけた。

『古今著聞集』管絃部二五六話の福天縁起について~ダキニ法と『刀自女経』をめぐって 猪瀬千尋

 面白いのが1245年という鎌倉時代に編纂されたタイトルにある説話集『古今著聞集』でダキニ天がどのように語られているかが分かること。そしてその「内容」が「刀自女経」にとても類似していると書かれているんです。

 、該当部分引用します

『(前略)こうした多様性を持つ吒枳尼天法聖教群のうちで、『古今著聞集』の内容と最も近しい関係にあると思われるのが『須臾福徳成就刀自女経(刀自女経)』と呼ばれるテクストである。刀自女経とは、古代語で婦人をあらわす「刀自」と、「女」という言葉があわさったものであるが、そこには女性や狐をあらわす「専女」という言葉も含まれている。『刀自女経』は正しく狐の経典と呼ぶにふさわしいテクストなのである。本経は『渓嵐拾葉集』にその名が見えることから、名前だけは知られてたいたものの、長い間、未知の経典として扱われてきた。しかし実際は寺院や諸機関にいくつかの所在が確認されている。近年では一般家庭用の勤行集としても出版されており、ことのほか流通した経典であったようである。高山寺に承元三年(一二〇九)覚経写「須臾福徳成就経」一巻があり、これが最古写本と思われる』

 

 ちなみに引用ラスト近くにある「一般家庭用の勤行集としても出版されており」の引用クレジット先には以前にこのブログでも紹介した師僧編の教本(茶吉尼天尊・稲荷明神次第/羽田守快 編)が記載されていたました。

 私は今回この『刀自女経』に記載されている「容姿」に倣ってお像を修繕(作成)していることは何度も記事にしたが、そのお姿は「お像(彫り物)」でみることはあまりないが、茶吉尼天曼荼羅などの「軸(絵画)」は概ねこの『刀自女経』の容姿と近しいお姿をしているから、本来これが「正式な」お姿なのだろうか。

 細かいことをいうと「首足各纏蛇」という表記の解釈が「白狐の首と両手足に蛇が巻き付いてる」ものと「首足各纏蛇」の「首」が「手」とというバージョン(手足各纏蛇)があるようなので、この場合茶吉尼天さまの手足に蛇が巻き付いてるものもある。お経を見る限りでは主語が「白狐」なのか「茶吉尼天さま」なのかどちらともとれる文体なのでこのような混乱が起きてたのかもしれない。ちなみに私は茶吉尼天さまの手足に蛇を巻き付かせる予定です。

 内容は少し「マニアック」に思われるかもしれませんが、先ほど兄弟弟子の方から、これから拝むお像の写真を見せていただいたのですが、台座、背景の彫りなど細部に観察して、ご自身でもそのお像の詳細な解釈をされていました。

 自身が拝むお像であればむしろそれくらいの「思い入れ」があってもいいように私は思いました。

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祈願を叶えるための「日々の勤行」

 以前に祈願をすれば修行が進むという記事を書いた。

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 ポイントは、祈願が叶うということは、叶うために自分の行動が変わらなければならないし、そこに学びが伴うことにもなるし、場合よっては価値観を変えなければならない状況に追い込まれることだってある。

 身の回りに起こるこれらの「変化」に気づけば「叶う」方向に進むだろうが、無自覚な場合「なんか最近いろんなことが起こるな」となって行動が変わらなければその祈願の成就も遠のいてしまうように思う。

 経験的に神仏は「簡単に見捨てない」ので、当人が「叶ってほしい」と諦めなければ、あの手この手で「その望みが叶えたいなら変わりなさい」と促してくる。むしろ神仏は見捨てないどころか「強烈な」状況に願主を追い込んでで無理やりでも「こいつを変えてやろう」とやってくることもあるように思う。

 そんな例を実際に時折目にする……

 お願いすればするほど状況がどんどん悪化しているように見えるが、それは「変わる」ための神仏からのシグナルに気づけないから。すると上述したように神仏からのシグナルが強烈になってくるのだと思う。

 よく「仏(如来)菩薩は緩やかにメッセージが来る」からまだ強烈なことは起きないといい、天部は験が早い分だけ急な変化を要求するから「きついことが起こる」なんてことを聞く。行者としてはこれについてまだ確たることは言えないが「信者として」「祈願をお願いする側として」そういったことは十分するぎる程に感じるところである。

 だから「祈願」をする場合には「これは修行なのだ」という自覚が必要と思う。無自覚で無理難題な祈願をするとただただ「えらい事」に巻き込まれてついにはその祈願を諦めることになりかねない。

 むろん「祈願」をしていなくとも日ごろから神仏のメッセージに耳を傾ける(むろん具体的に何かが聞こえるという話ではないですよ?念のため(笑))修行をしていれば常にアイドリング状態ともいえるので「祈願」をしたさいに受け取りやすいと思います。

 そのための少しでも神仏に向き合う時間、つまり日々の勤行っていまさらだけど大切だと思います。勤行もただルーティンをこなすだけという意識ではなく、一日ひとつでも神仏からのメッセージを貰うぞ!という高い意識を持ちたいですね。あまり期待し過ぎる態度も良くないと思いますが。ただただぼんやりお経を唱えるだけではせっかくの大切な時間がもったいないと思います。

 ということで……今日も寝る前に神仏と向き合う時間をとって寝ましょうね(^^)

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妥協は駄目?!

「修繕」をしていた荼枳尼天さま。守護神をお願いしているご尊格故に自分にご縁のあるお姿と考えた。ならば、得度してすぐからずっとお唱えしていた「刀自女経」を忠実に再現することにした。


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元のお姿の面影は全く無い(↓元のお像)
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「ここまで」とは、全く想定していなかったのだが……作成していて、どうやらこのお方は「少しの妥協」も許してくれないらしい。

手を抜けは「やり直せ」とばかりに端から壊れていく。正直、かなり「しんどい」のである。

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ただ、あと一息だと思う?!ので……頑張ります。

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猫の添い寝

 日本には伝統的に、息を引き取ってから埋葬または火葬にするまでの間の夜、近親者が死者とともに過ごすという風習がある。通夜を「お伽(とぎ)」「夜伽」「添い寝」などといって相続人が死者と添い寝をする例があるのは、その風習によるという。

 

 妻は少しナーバスなところがあり、愛犬の「るびぃ」が亡くなって、荼毘に付すまでの2日間、「るびぃ」の亡骸を安置してる部屋に一人で入れなかった。

 その安置の部屋が私の寝室だったので、私は「添い寝」まではいかないものの割と近距離で二日間、一緒に寝た。

 妻は冒頭で紹介した「夜伽」の事が頭にあり、日中私が仕事でいない間、「るびぃ」を一人にしておくのはしのびないと思っていたらしく、ずっと一人で部屋にいる「るびぃ」が気になっていたらしい。

 

しかし……「るびぃ」は部屋で一人きりではなかった。

 

「みいこが私の代わりに「るびぃ」と添い寝してくれていた」

 

そう妻が涙ながらに語った。

 

「みいこ」が我が家に来たときは「るびぃ」が先住犬で、「犬と猫の相性は大丈夫だろうか?」とずいぶんと心配もした。

 しかし、「るびぃ」は、そんな不安を見事に吹き飛ばし新参者の「みいこ」を難なく受け入れてくれた。そして、それ以来とても仲良になった。

 猫は、テリトリー意識が強いので家の配置が換わるだけでストレスを感じるほどに「環境に敏感」と言われる。

 おそらく「犬」と「猫」の違いはあれそのテリトリーを上手く共有していたであろう「るびぃ」と「みいこ」。

 私たちが大きな「喪失感」を感じたように「みいこ」も、「るびぃ」がいつものようにいないことに気づいたのかもしれない。

 だから、いつもの部屋にいない「るびぃ」を探し、私の寝室に侵入し、「るびぃ」を見つけて、いつもそうしていたように動かなくなった「るびぃ」の横で添い寝をした……

 

 妻は自分の代わりに添い寝をしてくれた、そんなみいこに「みいちゃんありがとね」と涙を流していた。

 

 (ストーブの前でみいこと添い寝する元気だったころのるびぃ)

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無意識と神仏の声

「無意識のその先に神仏がいる」

ということをこのブログで何度か記事にした事がある。これは現代科学で証明云々なんていうことは土台無理な話だから個々人が「信じる」「信じない」の話になってくる。

 

「もちろん信じるっちゃ!(宮城弁)」という方は以下の話にもお付き合いください。

 無意識の先に神仏がいたとしても、問題なのは無意識から発せられた情報が「個人の無意識」のものなのか、その奥の集合無意識なのか、さらにその先にある神仏からのものなのか区別がつかないということ。

 だからきっと二種類の過ちに注意する必要がありそうだ。

①無意識の声を「神仏の声」と過大評価する

②神仏からの情報を「無意識の情報」と過小評価する

 スピリチャルに興味があるとどうしても①に陥りやすいように感じて、現に二言目には「○○さん(例えばお不動さん)がこういった」と易々と言ってしまう人が結構いる。

 逆に宗教に関心がない人は②のようなリアクションであることがほとんどでしょう。

 我々のような駆け出しの行者だと「神仏」への信仰があるが(もしくはあるからこそ)簡単に「神仏の声」が自分に聞こえるはずがないと慎重な態度になりやすいし、それでいいと思っている。

 ただ振り子も極端に振れると、つまり「全く神仏のメッセージは届かない」と思ってしまうとそれはそれで「違う」と思うのだ。せっかく神仏がメッセージをくれたのに「どうせ個人的な無意識の情報だ」と捨て置いたらそれこそメッセージをくれた神仏に失礼だ。

 だから行者という修行者の立場なら「その情報が神仏からのメッセージである可能性がある」という「検証」をいちいちしていく努力をするべきだと思う。「個人的な無意識の情報だ!神仏からのメッセージだ」という安易な決めつけをせず「どちらの可能性もある」として一旦受けとめて慎重な検証、判断をする。

 その繰り返しも重要な「修行」と私は思う。

 無意識を入り口とした情報がもっとも入ってくるタイミングは信者の方であれば「礼拝」「勤行」をしているときだろうし、我々であれば行の最中だと思う。その時は礼拝、行に集中しつつも注意深く「心に浮かんだこと」は心に留めておくことが重要だと思う。

 またほかのアプローチとして心理学者が紹介するワークも取り入れるのもいいと思う。個人的にはアーノルド・ミンデルのワークがお勧めです(ミンデルの著書に多く紹介されています)。

 先日、妻と新しくできたショッピングモールに出かけた時、妻は「一人でゆっくりウインドウショッピングしたいから」と時間を決めて私から離れた。

 私は特にやることもないので、休憩スペースに座ってミンデルのワークをやってみた。

 ベンチに座ると店の喧騒が自然と耳に入る。うとうとと覚醒レベルが下がると耳から入る喧騒に時々浮かび上がるお客さんの「声」に意識が向く。沢山のお客さんの会話の中で私の耳に留まった「言葉」の意味を考える。その言葉を捉えたのは偶然ではなく「無意識の意図(もしかすると神仏の意図)」の可能性があるからだ。

 ミンデルはその言葉から連想されるイメージに集中して、例えば体の不調部分とリンクさせたり、過去の記憶を想起させたりとそのイメージを膨らませて「その言葉」の裏にある「ストーリー」を引っ張り出す。

 そんなことをしていると耳に入ってくる「喧噪」の「ガヤガヤ」という雑音が雅楽のメロディーが重なってくるような錯覚を覚えた。

 現実的には雑音がたまたま「そう聞こえた」だけなのだと思うが、私が「メロディーだ」と思った時点で意味を持つ、と考える。

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 そして、さらにそのメロディーの背後にある「ストーリーを探る」……なんてことを繰り返す。

 すると「はっ」とした気づきがあり、何らかの問題解決のヒントという具体的な「成果」が降りてくることもあるし、何もないこともある。

 「行」や「礼拝」の時だけでなく、ちょっとした「隙間時間」こそ、案外こういった無意識の情報に触れやすいということもあるのでお勧めです。

ではまた。

 

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