しゃみぃの、言語能力第二弾。
「ごはん」と「おはよう」はどう聞いても使い分けているように聞こえる?!
元々、音に臆病すぎるきらいが有りましたが、だからこそ音に敏感で人間の言葉を聞き分けられるのか?!なんて勝手な想像をしています。
ただの親ばかですが……
しゃみぃの言語能力編2
— 亮和 (@lQQznyjr3d4XhpR) 2022年11月7日
「ごはん」
「おはよう」
をいい分けてる?!#話す猫 pic.twitter.com/vrlIZlSuNm
しゃみぃの、言語能力第二弾。
「ごはん」と「おはよう」はどう聞いても使い分けているように聞こえる?!
元々、音に臆病すぎるきらいが有りましたが、だからこそ音に敏感で人間の言葉を聞き分けられるのか?!なんて勝手な想像をしています。
ただの親ばかですが……
しゃみぃの言語能力編2
— 亮和 (@lQQznyjr3d4XhpR) 2022年11月7日
「ごはん」
「おはよう」
をいい分けてる?!#話す猫 pic.twitter.com/vrlIZlSuNm
人生に「運」はどれだけ影響を与えるのだろうか?
人生の幸不幸を決めるのは「才能(先天的要因)」なのか?「努力(後天的要因)」なのか?という議論は昔から多く見聞きする。
最近は「努力できるのも才能」という意見(研究)も目にするようになってきた。すると、いよいよ「人生は先天的能力による」という話が優位になっているように感じていた。
しかし、先日、ふと以下のような動画を見つけた。この動画が言っているいることはなんと「人生の幸不幸は才能ではなく運である」というのだ。もちろん全く「才能」は関係ないとは言っていませんが、より重要なのは「運だ」と言っています。
「え?そんなバカな?」
と最初は思いましたが、動画を見て納得しました。
この結果は、だれかの怪しい仮説ではなく、ちゃんとしたサイエンスの研究結果です。もちろん反論の余地もあろうとは思いますが、一つの真実を物語っているのは間違いないと思います。
「人生、結局才能だよな」と腐っているあなた!
腐らずに是非動画を見てることをお勧めします!
さて「人生の幸不幸」が「運」だとすると、仏教を信仰する我々にとってはむしろ「朗報」になると思った。
普通は、「運」というのは自分のコントロールの外にある「偶然の産物」と考えられている。
でも我々の多くは「運」は「偶然の産物」とは思っていない。偶然にも意味があると思っているし、だからこそ「幸運」「不運」にも意味を見出し、その「幸運」「不運」という事象を修行の糧にして仏道に励む。
つまり「運」と「信仰」は切っても切れない関係性があるのは明白だ。
また、考えてみてほしい。「祈願をする」という意味を。
祈願したなら、もちろん自身の努力はしつつも「自分がコントロールできない部分」は神仏にお願いして験を受け取る訳だ。
ということで、今日の結論。
「運」が人生の幸不幸を決定する最大の要因なら、仏教修行をしない手はないということ。
つまりは……
「あとは神仏にお任せする」
やっぱり最後は、ここに着地すると思うのだ。
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何でも試してみたくなる好奇心。
みいこを見習わねば?!
自分の体のサイズを知ろうね?#ギリギリ通るの知ってたニャ pic.twitter.com/k89vJKEolu
— 亮和 (@lQQznyjr3d4XhpR) 2022年11月3日
有名な仏像でも「尊格(仏像の名称)が分からない」もしくは「実は尊格の名称が間違っているのではないか?」というものも多くある。
例えば密教の尊格のような多面、多臂の複雑な容姿のものは特徴がはっきりしているし、また儀軌にも詳細があれば間違えようがない。
ただ、形がシンプルなものは言い方を替えると「特徴がない」ので、区別がつかいことも多くある。
例えば、釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来といった如来系。また観音菩薩も有名な六観音であれば間違えはないが、それ以外……たとえば胎蔵曼荼羅の蓮華院に並ぶお姿を見ても区別がつきにくい……等。
仏像を作る身になってみると、まず自分で拝む時に「その尊格」に見えないと話にならない。また、自分でそう思っていても仏さま側から「いやいや形違うよ」ということもあるかもしれない。また、道場である以上、お像を信者さんが拝むことにもなる。とするならばそのお像をみて「ああ、これは○○ですね」と「分かる」お像である必要もある。
さて、今作成中のお像は「多羅菩薩」だ。
チベット仏教のターラー菩薩は、とても特徴的だ。だからチベット仏教風に作成すれば(チベットの姿を知っているのならば)間違えようがない。
ただ、私が作るお像は、師僧にもご助言いただき胎蔵界曼荼羅のお姿に寄せることにした。
胎蔵曼荼羅の蓮華院に見られる多羅菩薩は結跏趺坐で合掌の姿。つまりとてもシンプルで特徴を出し難い。強いて言えば、肌の色が「緑」であることか。だから彩色をすれば他の尊格との差別化はできるかもしれない。
合掌で描かれる菩薩としてすぐに思い浮かぶのは普賢菩薩がある。ただ普賢菩薩はほぼほぼ象に乗るので多羅菩薩との区別はつきそうだ。また衣裳も多羅菩薩が中国風の「がい襠衣(がいとうい)」であるのに対し、普賢菩薩は偏袒右肩だ。
では、「多羅菩薩だ」と特徴を出すにはどんな工夫が必要なのか?
結構、悩みました。
でもやっぱり先に多羅菩薩のことを数回に分けて特集する過程で、多羅菩薩を良く知り、そのイメージを自分なりに育て上げることはできました。
(参考:多羅菩薩記事)
そこで意識したこと4つ。
①観音の救済にも漏れた衆生をも救う、「万能の救済者」であること
②理想の女性象(女性が目指す憧れの姿)であること
③「母」のイメージを持つこと
『(要約)ターラーは「慈母」であり、天も人も夜叉も、誰一人としてターラーの子でないものはない。それゆえ「世間母」であり、観音はじめ大乗菩薩たちも全てターラーの子であるから「般若母」でもあり、さらには三世の諸如来の母=仏の母である(「大方広曼殊室利経・観自在菩薩授記品」』
④青蓮華を持つこと
合掌に青蓮華を持たせた画像が存在するのは確認できています。また、同じく青蓮華を持つ文殊菩薩は時に青蓮華に坐するので、蓮華台の色を青にするという構想も考えている。
そうは言っても、これらを表現するのは自分自身なので普遍的なお姿にするのは至難のことだとは思います。
結局、「これでいいんだ!」と自分で自分を納得させるための言い訳のようになってしまいましたが……
以下、作成途中の多羅菩薩です((まだ袖などはラフ状態です)。
まだまだ作成途中なので「こうした方が……」というご意見などありましたら遠慮なく。
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この記事を上げてから今日でちょうど一年。
はやいもので、道場を立ち上げて一周年です。
一言感想を申し上げれば……
「信者さまと一緒に、ずいぶんと修行させていただいたな」
です。
だからここで改めて感謝申し上げてたいと思います。
一年、ありがとうございました。
化他行のため、つまり施主様のために壇に上がると、自行の時に対してた本尊の表情が違う。異様に厳しいのだ。やさしいはずの本尊の視線がいつになく鋭い。
その時思いました。
「ああ、いままでのようなただの修行者ではなく、自身の行者としての立場が変わったんだ」と。
だから、それからのご本尊さまの厳しこと、厳しいこと……
つまりは信者さまの願意を叶えつつも、私は裏でもだえ苦しみながら修行させられたということです。
ということで、まだまだ修行の足りない身ですが信者さまの仏道修行のお手伝いができればと思っております。
ひとまずご挨拶まで。
業務連絡です。
本日、11月分の人型加持の護符をご送付しました(先祖供養の御札は明日発送になります)。
また、先月、「お試し」で人型加持をお申し込まれた方で「継続」を希望される方はお手数でも今週中にご連絡をお願いします。
連絡先
仙台にいたころの信者時代、私はよく観音霊場を妻と参拝した。
時に「スタンプラリー」と揶揄されるが、その際にいただく御朱印も楽しみの一つだった。
御朱印の「意義」に関する記事も過去に書いたのでご参考に。
さて、今日、関西在住の方で四国八十八ヶ所霊場を三度を始め西国の観音、不動、役行者の霊場を複数回も継続して参拝し続けている方が、当院に参拝にいらした。
当院では不動尊華水供、人型加持のご依頼を受け賜わっていたご縁がある。また般若心経の写経を継続されていて定期的に当院へお納めいただいている。
今回は関東地方の名だたる不動霊場を参拝しつつも、その道中に当院にわざわざ足を向けていただいた。
色々お話しする中で……
「人生が後半にいくにつれ上向きなんです」
そう話されていたが、この方の信仰に向き合う姿をみて、すぐに神仏に守られていると実感しました。
他人任せではなく、自分の足を使って霊場を巡る。これは立派な修行ですよね。
* * *
最後、せっかく遠方からおいでいただいたので般若理趣分による転読でお加持差し上げた。お加持の最中に、確かに西日が道場に照りこんでいましたが背中が光って見えたのが印象的でした。
行者、教師という立場と信者さまという立場ですと、無意識に自分が「上」という心持になりそうですが「信仰の深さ」で、むしろ私の方が多くの学びを頂いた気がしました。
「人生、死ぬまで修行ですよね」
そう笑っていらしたお姿をみて、私はただただ首(こうべ)は垂れるしかなかった。
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