疫神について、考えてみようと思います。
少し前の記事で「日出処の天子」という聖徳太子を主人公とした漫画の紹介をしましたね。
この漫画の中で聖徳太子の父「用明天皇」が崩御される場面で、とても恐ろしく「疫神」が描写されている。
以下引用
※引用基準は以下のサイトを参考にしました。
さて、疫神(えきじん)を辞書で引くとこんな説明が書かれている。
『病気をはやらせるという神。疫病神(やくびょうがみ)。』(日本国語大辞典)
先日の漫画の記事でも話題にした「はなしずめのまつり」をはじめ、道の境で疫病神をもてなすことで都の外へ返してしまうという「道饗祭」など「疫神」に関する行事は多く残っている。
さて、では……例えば牛頭天王や、我が道場にも軸がある摩多利神(摩訶迦羅天)……冒頭の写真、は「疫神」と呼ばれます。
とするなら……
「疫病をもたらす神を祀るってどういうこと?」
という疑問を持たれる人もいるだろうと思う。
これは例えば「焔摩天」という「死」というイメージがとても強い尊格が「延命」に強いという理屈を考えると分かりやすいと思います。
焔摩天はヒンドゥー教では「死者の国の王」とされる。だったら「いつでも死に追いやる」ことが出来そうで、とても恐ろしい存在に思えてくる。
ただ……それなら逆もまた真なりで「だったら死に追いやらないこともできる」ということにもなる。
当たり前といえば当たり前の話だ。
上述した摩多利神こと摩訶迦羅天はマカカラ(マカキャラ)と読むがこれはマハー・カーラの音写。マハーは通常は「大いなる」と訳されるが、「カーラ」は?というと……
「黒」か「時」の訳があてられる。
「黒」と訳せば「大黒天」となる。
「時」と訳せば「大いなる時」が直訳だが、少し頭をひねれば「時を支配する」という意訳ができそうだ。
「時を支配する」ならば「寿命」を支配することも可能なわけで、その場合、死を支配する「焔摩天」と近しい存在になる(摩訶迦羅天は焔摩天と同体とされることもある)。
勘のいい方はもう分かったと思います。
さて、話を「疫神」に戻しましょう。
「疫神」が「疫病」を「もたらす」なら、上記でみたように「(疫病を)もたらさない」ことも当然出来るという理屈になりますね。
「疫神」に関わらず、仏教の、特に天部にはダークなイメージの尊格がおおくある。ただ容姿は「ダーク」に見えても、当然、その裏返しである「表の力」があるということ。
むしろ「黒(闇)」だったり「死」だったり「疫」だったりとその「黒さ」が強いからこそ、それがひっくり返って「表の力」になっときその「プラスの力」はより強力だ、と思えばこれらの神仏への信仰も違ったものになりませんか?
焔摩天、摩多利神(摩訶迦羅天)、荼枳尼天など当道場には「死」をイメージする尊格が多くいるので眉を顰める人がいるとかいないとか(笑)
でもそれは翻って、これらの尊格が「表」の功徳を発すればとても心強い神仏であるということなんですよ!
★ご相談はこちらから★
記事が面白かったら
クリック↓お願いします!