先日のとある勉強会で、ある行者さまとそんな話になった。
雑談の中でチベット仏教の話になり、その過程で「夢の修行 ナムカイ・ノブル著」の話になり話は必然的に「夢」の議論になった。
このブログでも鎌倉自時代の明恵上人が書いた膨大な夢の記録「夢の記」をはじめ、「夢」の話題を多くしてきた。
私はむろんチベット仏教は門外漢なのであくまで「雑談」の範疇で、いろいろと話をさせていただいた。
我々が「夢をコントロールする」というと真っ先に「明晰夢」というワードが思い浮かぶ。このワードは心理学的にアプローチする方もいるし、スピリチャル的にアプローチする人もいる。
私は仏教徒らしく?明晰夢に対しては中道のスタンスで、その夢を誇大解釈することはないが、それなりに意味がある夢と位置付ける。
さて、前置きが長くなったが、冒頭に書いた幽体離脱が明晰夢になるという話をしてみたい。
私は中学生くらいから金縛りを頻発する体質だった。
割とそんな人は多くいると思う。
ただ私の場合は、その頻度が多すぎたから「慣れ」も出てきた、最後は「観察する」という余裕もできて、結局、金縛りはどうやら幽体離脱の前兆だという結論に達した。
そして、金縛りになったら身体から意識を引き離して幽体離脱をするという「技」を覚えるに至った。
ただ、私の場合は「幽体離脱」とは書いたものの厳密には肉体から「幽体?魂?」が抜けたということはなく、抜け殻である自分の肉体を確認しようとして、そこに肉体(自分の身体)があったことがない。だから私はこれは「意識を保ったまま夢に入り込んだだけ=体外離脱体験」と自分の中では納得していた。
そんな話を冒頭で書いた上座の方行者の方にお話ししたところ「実は私も同じ体験をする」と打ち明けてくれました。
さて、そんな体外離脱体験(明晰夢体験)が今、密教の行をするようになって少しだけ「参考になっている」ということがあるのでここで書いてみたい。
それは「ビジュアルイメージ」のこと。つまり、眼を瞑って見える「映像」の話。
私は最終的に金縛りにならないでも意識をコントロールして明晰夢に入ることができるようになった。それをやる時にポイントになるのが「意識レベル」と「ビジュアル出現」をリンクさせる、ということ。
つまりだんだん意識レベルが下がって眠りに近づくと、瞼の裏側にビジュアル(おそらく夢の元になる映像)が出現する。裏を返すとビジュアルが出たということは眠りに近づいているということ。この時にボーッとビジュアル(映像)を見ているといつの間にか眠りに引き込まれその時見る夢は明晰夢ではなく普通の夢になる。
ただここで「あ、ビジュアルが出た、このままだと眠りに引き込まれるぞ!という客観的な自分を出現させるとその客観的な視点が残り続けて意識を残したまま夢に入り込むことができるようになる。
まあ言うは易しだが、割と難しい。
この感覚があると行中に映像が出たということは、もしかすると意識レベルが下がっていてそれに気づいていないということもあり得る。
よく信者さんでもお勤め中に「〇〇さまが出てきました!」なんてことを言うが、私は「気づかずに意識レベル下がってるかも?」と冷静にアドバイスする。あんまりがっかりさせないようにね(笑)
さて、話を戻すと、このような映像が顕れた時は「客観的な自分」をしっかり意識することが大事。
また行中に無理やりビジュアルを出すことが行的に良いか悪いかの議論は置いておいて、イメージが上手くできないときは意図的に呼吸を制御して意識レベルを下げれば大抵ビジュアルを出現させたることは出来る。それが正しいやり方なのかは置いておいて。
……日常誰もが見る夢。
あまり関心を持ちすぎるのも良くないとは思うが、眠りばなの「映像」を意識する。すると、リアルなビジュアルが出現することに気付けると思います。
少なくとも、その映像は心理学的には意味のある映像かもしれないので、そのビジュアルを覚えておいて書き出してみるなんて試みもいいかもしれない。
明恵上人のように夢を記録するよりは、パワーは使わない作業だと思います。
ではまた。
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