「お像」に関して、最近感じる超個人的な感想書いてみる。
あくまで「感想」ですから、そのおつもりで。
行者が念誦をする際、どうしてもその行のご本尊と向き合う時間は長くなる。
するとその「お像」と向き合って「しっくりくる」時もあれば、「違和感」が激しい時もある。
時にその「違和感」の原因が、不出来なお像側に原因があることもあるかもしれない。しかし、そう早合点する前に拝む側の「修行の度合い」「行中の心」が問題であることが原因ということも十分考えられる。
その日に限った「短期的な心の状態」だったり、行者としての成長過程でそのお像(尊格)に向き合うだけの土壌ができていないという問題だったり。
いずれにしても、現実的にこの「違和感」をおして無理に拝み続けると気分が悪くなることもある。行中は変性意識状態になるからなおのころ、こういった違和感にセンシティブになっているのかもしれない。
この「違和感」が「修行が足りない」といことが原因で起こっているならば、無理してでも拝み続けるしかない。事実、我慢して拝んでいくうちに「ピタリ」と違和感が解消することも確かにあった。
さて、今日の本題。
いままでは上述の通りお像に対する「違和感」は「自身の修行の足りなさ」で納得していた。ただ最近は、この説明では少し説明がつかない「あれ?」と思うことがある。
それは自身の作った三体のお像を拝んだ時の感触の話。
自作のお像は三体とも、行中、自身とお像との、あまりの一体感に「ゾクリ」とすることが多々あるのだ。
それほどに自身の心とお像が重なりやすい。
拝んでいて「重なりやすい」というのはプラスのように思えるが、裏を返すと上述した「違和感」が全くないので、それを解消するというプロセス(修行)が生じえないので、手放しに喜んでもいられない気もする。
冒頭で書いた通り超個人的な感想なので、今のところ答えはない。しばらく注意深くこの経過は見守っていきたいと思っている。
※准胝独部法伝授会10/9(月・祝日)、定員となりましたので締め切らせていただきます。お申込みいただいた方には追ってご連絡させていただきます。
★ご相談はこちらから★
記事が参考になったら
クリック↓お願いします!