准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

『紅蓮華』じゃなくて『青蓮華』 多羅菩薩完結編

 「紅蓮華」と聞けば、大ヒットした鬼滅の刃の主題歌を思い出す人がほとんどでしょうか。いやいや、鬼滅の刃より進撃の巨人の「紅蓮の弓矢」を真っ先に思い出すなんてひねくれ者もいるかもしれません!?

 でも、仏教徒である皆さまは「紅蓮華」と言えば観音さまの持物である「パドマ(紅蓮華)」をまず思い浮かべたことと思います……ですよね?(笑)

 さて、仏教で蓮華と言えば妙法蓮華経の蓮華である白蓮華(プンダリーカ)か上述した、紅蓮華(パドマ)のことはよく耳にします。

 では「青蓮華(しょうれんげ)」のことは?

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蓮の葉 pngから .pngtree.com/

辞書を引くとこう書いてあります。
『ハスの一種。 青色の蓮華。 また、仏・菩薩の目にたとえてもいう。』

  仏・菩薩の目とあります。

ピンときましたか?

 仏の目と言えば、観音さまの瞳から生まれた、「瞳」ほ意味を持つ「ターラー(多羅菩薩)」です。

ということで、多羅菩薩編の続きです。

ryona.hatenadiary.jp

 ターラーの容姿は、チベットのタンカが多く売れられているので見る機会は多いと思います。その左手に握られているのは、観音さまの「紅蓮華」ではなく「青蓮華(ウパトラ)」なんです。

 皆さんも試しに「ターラー」「タンカ」と入れて検索してみてください。持っている「蓮華」がブルーになってますよね?

 准胝尊のお経に出てくる「多羅菩薩」ですが、できればそのお経のくだりを読む際にはせめてターラーの姿くらいはイメージしたいところですが、その際に「青蓮華」のイメージは外せないと思いますので、皆さんもこの機会に覚えておきましょう。

 さて、ターラーの「容姿」の話が出たので少し、その辺の話をしておきます。

 上述したようにチベットのタンカでよく見る「ターラー」ですが、少し詳しい人なら「二種類」のターラーが多く見られることもご存知かと思います。

 曰く「グリーンターラー」と「ホワイトターラー」です。

 その名の通り「緑色」か「白色」かの違いがありますが、注意深く見ると「座法」が異なります。グリーンターラーは「遊戯座」でホワイトターラーは「結跏趺坐」です、だから黄金の像では色が確認できないのですが座法を見れば区別がつきます。

 さて、「緑」か「白」の何が違うのか?という問題ですが、本来的にはターラーの基本色は「緑」です。

 歴史的には、特別な「ターラー」として「白」が登場します。具体的には「死(死魔)を欺くターラー」として「息災」と強く結びついた役割が付されたようです。

 「白」といえば「息災」をあらわす色として、皆の知るところであるが准胝仏母も「白衣を着る」とありまた、「死」のイメージとしては眷属の焔摩天の影を感じなくもない。なにより准胝尊は延命の功徳がより強調される。

 もう少し突っ込んだ話をすると、多羅菩薩を説く数少ない漢訳経典である「大方広曼殊室利経」にある「観自在菩薩授記品」にはこうある。

「(要約)ターラーは慈母であり、天も人も夜叉も、誰一人としてターラーの子でないものはない。それゆえ「世間母」であり、観音はじめ大乗菩薩たちも全てターラーの子であるから「般若母」でもあり、さらには三世の諸如来の母=仏の母である」

 この記述は准胝仏母の別名「七倶胝仏母(しちくていぶつも)」とリンクします。つまり「倶胝」というのは千万とも百万ともいわれる膨大な数の意味。七は単に「七倍」というよりはシンボリックに「無限」という意味合いを持たせているいるので、つまり「七倶胝仏母」というのは「無限にわたる数」の「仏の母」を意味します。

 あくまで私の個人的な持論ですが、ホワイトターラーと准胝仏母は近い属性を多く持っていると思っています。

 とはいえ、「なら准胝経に登場する多羅菩薩はホワイトターラーか?」と言えばそうではなく普通にグリーンターラーだと思われます。理由は准胝経に登場するのが「観音菩薩」と金剛手菩薩とセットで出てくるから。

 ホワイトターラーとして存在する際はあくまで「独尊」としてであって、観音の脇侍で登場する場合は基本の緑のようです。

 ちなみに日本で見られる数少ない多羅菩薩が、前回も紹介した胎蔵曼荼羅の蓮華院にいるお姿。

 ただこのお姿を見ると上述した「青蓮華」を持つ姿ではなく、「合掌」している姿です。

 この姿は歴史的に「観音の脇侍」とした際に、時折見られた姿のようなのです。阿弥陀三尊像の観音さまもそうですが、「独尊」と「脇侍」では姿が変わることはよくありますね。

 だから曼荼羅の多羅菩薩の姿は観音の脇侍として「観音を礼拝している」という意味が付されていると解釈する良いように思われます。実際は合掌したターラーの手の中央に「青蓮華」を持っている像が多く見られることから、この胎蔵曼荼羅の多羅菩薩も合掌の中央に「青蓮華」を持っていた可能性が高いとも言われています。

いずれにしても「青蓮華」ですね。

 ということで、多羅菩薩編はこのれて完結です。

マニアックな話にお付き合いいただきありがとうござました。

 

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お供物はどうする?

 皆さんは、神仏へのお供物はどうされていますか?

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 密教の行(祈祷)では、お供えするものは儀軌に従うので問題ないのですが、私は信者時代、割とこれに関しては悩みました。

 なぜ悩んだかと言えば……「苦手」だからです。

 私は実生活でも記念日に「プレゼントを渡す」という気の利いたことができない。だから妻は既にこういったことを私に期待することを、とうの昔に諦めてしまった。

 ……それに倣うように神仏に対しても事あるごとに気の利いたお供物をお供えするということが苦手だった。だから例えば旅行へ行ったときに神仏へのお土産ということが出来ない。

 要は気が利かないのだ。

 特に守護をお願いしている荼枳尼天や祭壇にお祀りしている歓喜童子や聖天様の御札といった所謂「実類」と言われる天部尊は「人間に近しい」尊格として、人間の「気持ち」をより大切にされるという話を聞く。

 もちろんそんな行動を直していくのも修行だとは思うが、もう一つのやり方として「自分に合った方法」を探すのもありだと思っている。

 私の場合は「気の利いたときに」ということができないので、いっそ「毎日お供えするものを決めてしまう」という方法にした。

 具体的にはご本尊への「閼伽(水)」「米」とは別に、荼枳尼天には「お揚げ」「酒」、歓喜童子と聖天様には「大根(輪切りしたもの)」と「酒」を毎日お供えすることにした。

 これは裏を返すと「機械的にやる作業」と見られてしまい「心がこもってない」という批判が聞こえてきそうだ。特に上述した「実類」の尊格からは気持ちのこもっていない「機械的にお供えした供物」にご不満が出そうでもある。
 しかしである。「機械的」とはいえ毎日お供えするという「行動」には僅かながらにも「気持ち」は乗ってるはずと思うのだ。人間はロボットではないのだから。
 それにやってみれば分かるが、毎日というのは小さな手間でも大変だし、供物を切らさないようにいつもストックしておくという意識も必要だ。

 正直話せば「毎日欠かさず」というわけにはいかず、時折さぼってしまったりするがそれでももう5年以上も「毎日の供物」を継続してきた。

 5年以上続けてみると、いろいろ「感触」として分かってくることがある。まず自分の意識として「毎日お供えしてきた」という自負のようなものが生まれる。

 それに加えて今となっては上述の二天尊との「絆」はより「強くなった」と「日々」実感するところである。

 やっぱり「機械的な行動」でも僅かに「心」が動いていれば次第にその気持ちは蓄積されると思うのだ。

 仏教的に言えば阿頼耶識に「熏習」が起こっているに違いない。

 言ってしまえば「継続は力なり」という使い古された諺に帰結するのだが、皆様にもお勧めしたい「お供物」のやり方としてご紹介させていただきました。

 

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女尊「ターラー」とは?その①

 先に予告していました准胝仏母のお経である『仏説七倶胝仏母心大准提陀羅尼経』に出てくる尊格の解説をしていこうと思います。

 第一弾は「多羅菩薩」です。

 まずは多羅菩薩(ターラー女神、ターラ菩薩等の呼び名が一般的)の事が良く理解できる文章を引用します。

『ある時、観音様が全ての衆生を救い尽くして、これからブッダの世界に行こうとしたときに、後方の遠くの方で微かに鳴き声が聞こえました。何かと思い振り返ると、遥か彼方に未だ救われることなく「助けてください」と苦しみの声を発する衆生が大勢いたのでした。「あぁ、可哀そうに」とその衆生を思って流された涙が「ターラ菩薩」に変化したといわれています。(中略)ターラ菩薩は慈悲の目で全ての衆生を見て(※観音様でも見逃してしまった衆生を見つけ出して)、救いの手を差し伸べる愛溢れる女性の菩薩です(慈悲の光彩 林久義著(星雲社)より引用)※は私が入れた注釈です。

 ところで……

 皆さんが仏教の「女尊」といってまず思い浮かべる尊格はなんでしょう?

 想像するに「弁才天」が大多数、「吉祥天」「鬼子母神」がそれに続くと想像しますがどうでしょう?

 もしかすると「観音さま」という人もいるかもしれませんが、厳密に言えばインド、チベットでは観音は明確な男性。ただ中国、日本では観音は「女性的」な属性を多く含んでいるので「性別はない」という解釈が一般的なのでしょうか。

 もちろん私は女尊と言えばご本尊の「准胝仏母」をまず思い浮かべますが、一般信者の方には馴染みが薄いのはご存知の通りです。なぜ「仏母」ってあまり日本で知られていないんでしょうか?そんな答えも今日の記事にヒントがあるかもしれません。

 さて、では日本ではなく世界に目を向けるとどうか?

 これは日本以外の大乗仏教国では即答されることを想像します。

人気の女尊と言えばぶっちぎりで「ターラー」ということになります。つまり多羅菩薩です。

 『仏説七倶胝仏母心大准提陀羅尼経』に出てくるけど、多羅菩薩なんてマイナーな仏さま知らないよ……なんて思っていたあなた!大間違いですよ!(笑)

参考引用↓

「インド、チベットはもとよりネパール、そして東南アジア諸国で最も信仰を集め、絶大に人気を誇った女神」

「(チベットで)菩薩における観音が、男尊としては突出して人気を博したが、ターラーの人気はそれに匹敵する。男尊ならば観音、女尊ならターラーというすみわけがされているように見える。(中略)ターラーのチベット名は「ドルマ」で「救済者」を意味するが、その名前は一般の女性の名前としても好まれた。ターラーはそれだけ人々に親しまれた仏なのだろう」(仏教の女神たち 森雅秀著(春秋社)より引用)

 じゃあ、なんで日本ではあまり知られていないのだ?という疑問が当然湧いてきます。
 それは中国ではターラーが流行らなかったため。ご存知の通り日本の仏教は中国経由。当然日本でもその影響をもろに受けて多羅菩薩は認知されないことになったということになります。

 もちろん「まったく伝わっていない」という訳ではなく、幾つかの漢訳経典に登場するし、また有名なところでは胎蔵曼荼羅の蓮華院のお姿と、十巻抄という図像集に「多羅菩薩」としてちゃんと「お姿」が確認できます(この辺は次回に解説します)。

 さて、そのターラーとは一体どんな尊格なのか?

 その淵源は所説あるようですが、冒頭の引用と重複しますが、典拠としては以下ものがあります。

①観音の瞳から放たれた光明から出現した(大方広曼殊室利経)
②観音の瞳から落ちた涙がたまって池となり、そこに咲いた蓮華の花の中から生まれた(「マニカンプン」※チベットの歴史書

 どちらも観音の「瞳」から生まれているが、ターラーという言葉は一般名詞では「瞳」を意味します。いかなる衆生でもでも「見落とさない」という意味合いが強く付加されているのがよく分かりますね。むろんそんな菩薩さまであれば衆生が大いに頼りにしたくなるのも頷けます。

 また、今まで見てきたように「観音の瞳」とあるように「観音」との関係性が強烈に示唆されています。

このことは上で少し触れた「胎蔵曼荼羅」の聖観音を中心とする蓮華院にターラー(多羅菩薩)が名を列ねること。また、チベットのタンカに目をやるとターラーが観音の脇侍となっているのをよく見かることからもよく分かります。

 ただしです……

 こんなにも人気のターラーですが、冒頭で書いたように日本で女尊と言えば弁才天、吉祥天、鬼子母神です。ではこの三尊に共通しているのはなんでしょう?

 そうですね。みな「天部尊」です。つまり日本で明確に「女尊」として存在するのは「天部尊」がほとんどで、例えば日本では女性的に表現される観音をはじめとする多くの「菩薩」は明確に女性として表現されることはありません。
 これに対して「ターラ菩薩は観音様と同様に、菩薩の十地では如来地の位としてブッダに等しい菩薩です。つまり天部尊ではありません。
 しいて言えば准胝仏母、仏眼仏母などの「仏母」という女性の尊格は日本でも見かけますが、どうしてかどれもとてもマイナーな尊格です。
 仏教の歴史を紐解けば、 インドのヒンドゥー教がシヴァ、ビシュヌといった男尊中心だったものが次第にドゥルガー、カーリーといった女尊が台頭し、ついにはシヴァ、ビシュヌの人気を凌駕するようになります。そんな時期(グプタ朝からパーラー朝)に仏教も大衆のそんなニーズに大いに影響を受けて「女尊信仰」を取り入れていったことは想像に難くありません。

 上述したようにそのような女尊信仰は日本には伝搬してこなかったため、その中心にいたターラーも日本で積極的に信仰されることはほぼなかったということのようです。

もしかすると如来、菩薩の性を曖昧に表現する日本の仏教において天部尊ではない女尊が受け入れにくかったというようなことがあったのかもしれません(これは私の勝手な想像です)。

 ……ということで世界的には観音さまと肩を並べる程に人気の多羅菩薩を概説しましたが、次回もう少しこの多羅菩薩に関して突っ込んだ話をしたいと思います。

 今日のところはここまで。

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准胝経に登場するご尊格

 以前に在家の方が読経できる准胝さまのお経として地婆訶羅訳の『仏説七倶胝仏母心大准提陀羅尼経』を紹介したことがありました。

ryona.hatenadiary.jp

 もちろん皆さん日々読んでますよね?(笑)

 このお経を読んだ方は気付かれたと思いますが、このお経にはいくつかの尊格に「出合う」というくだりがあります。具体的には5種類のご尊格の名前が登場します。

曰く……

観世音菩薩
多羅菩薩
金剛手菩薩
阿鉢羅是多菩薩(あばらせいたぼさつ)
訶利底菩薩(かりていぼさつ)

 もしかすると「観世音菩薩」以外の名前は初見という方もいるのでしょうか?

 仏教をある程度勉強している人は多羅菩薩は、チベット仏教で大人気の女尊ターラーであることや金剛手菩薩は金剛薩埵と同体であることや訶利底菩薩はきっと「かりていも=鬼子母神」であることまでは分かると思います。

 ただ阿鉢羅是多菩薩(あばらせいたぼさつ)は?

 私も調べるまで知りませんでした。

 実はまだ確証はないのですが、おそらく「あばらせいた」は「アバラージタ」の音写で日本では「無能勝明王」の名で知られるご尊格と思われます(もしくは、このお経は女尊の登場が多いので無能勝明妃かもしれません(読みは女尊なので語尾を伸ばすアバラージター)。

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無能勝妃 「密教仏像事典 頼富本宏/下泉全暁著 人文書院」より引用

 さて、いずれにしてもあまり見聞きしないご尊格ばかりの登場で「ざわざわ」したままの人が多かったと思いますので?今後少しづつ上記したご尊格のご紹介を”詳細に!”していこうと思ってますので……期待してください!(そんなマニア路線はいつものように?辟易されるかもしれませんんが:汗)

 

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精霊供養

 丁度、お盆前のタイミングで「精霊供養」を伝授頂くことができ昨日結願となった。

 この精霊供養には「供養」がちゃんと「できているか否か」の「しるし」があるので、「ただやりました」では済まない。

 また怖いのは「失敗すれば大変なことになるよ」ということまで具体的にしっかり知らされてから「供養」にはいる。

(師僧のブログでは過去の記事も含めて精霊供養の記事がございますのでご参考にしてください)

konjichouin.hatenablog.com

konjichouin.hatenablog.com

 結果、「しるし」に関しては、正直申し上げると「微妙」でした。

 まったくない訳ではないが「はっきりと」という程ではなかった。

 他の行のように「百座」であれば、その行の作法も最終的には身体に染み付き行をしながらも「できている」という感触は大いに感じることができる。

 しかし今回は7日間と数が限られるので、最後まで「たどたどしさ」が残ってしまったのは否めない。つまり「まったく失敗ではない」が「これで出来たと思うなよ」というメッセージがこの結果には込められていると私は思った。

 だから私はこの供養は折を見てまだまだ継続的に行うべきだ感じています。

 

 他に「いつもは経験しない」気になった「体験」としては、毎度「ある真言」を唱えると喉がヒリヒリと痛くなり声が出にくくなったり、供養の間(40分程度)のうちに3時間燃焼のロウソクが一気にドロドロに溶けてしまったこともあった。

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「これが供養している「餓鬼」の仕業なのかは、今の私には判断できかねますが、精霊供養=餓鬼を積極的に集めるということを鑑みればこれくらいの「不思議」がおきるのも「さもありなん」とも思う。

 

今回、まだまだ、修行が足りないことを痛感するができたのはプラスであったと思う。


参考図書

①「修験道修行入門 (秘教入門シリーズ)」羽田守快著(原書房

※本書には精霊供養の解説があります

②漫画「霊験修法曼荼羅」秋月慈童著(HONKOWAコミック)

※この供養をするエピソードがでてきます

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敵を称賛する文化~スケボーパークで見た奇跡

 開催に否定的な意見が多かった東京オリンピックも閉会になった。

 私個人の意見としても反対派ではあったが、オリンピック開催中はTVで大会の結果を多くの機会で見聞きした。

 コロナ渦での開催に反対とはいえ、出場選手が必死に競技する姿を見れば彼ら彼女らの頑張りにたくさんの感動を貰えたのも事実。

 そんな今回のオリンピックで私が「奇跡」とも思えるシーンに出くわしてとても感動した。

 それは「スケードボード・パーク」という競技。

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 私がたまたま見たシーンが日本の中学三年生「岡本碧優」選手が、メダルのかかった重要な場面で「失敗」してしまったシーンだった。他の日本人選手が金・銀をとるなかでむしろ優勝候補だった?彼女が失敗でメダルを逃すというシーンだったので、見ている方としては「この子だいじょうぶかな?」と心配になるほどだった。

 しかし、彼女が転倒して仰向けで泣き崩れていると日本はおろか海外のライバルたちが彼女に駆け寄り抱き合い、皆で掲げて励ましはじめたのだ。

 この「パーク」という競技には、他の競技にはない「独特の習慣がある」とこの時知るに至った。

 他のオリンピック競技では対戦相手は「敵」であり、ライバルの失敗というのは自分が上に行けるチャンスな訳だから本人ととってはむしろ「こころでガットポーズ」という場面なはずだ。現に競技によっては相手のミスに歓喜する場面も多く見かけるし、それが悪いとも思わない。

 しかしこの「パーク」という競技では競技者が失敗すると他のライバルたちが全力で駆け寄り励ましあうという「文化」があった。

 泣き崩れていた「岡本碧優」選手がライバルたちの励ましで笑顔を取り戻す姿を見て、涙もろくなった私は不覚にも号泣してしまった(^^;

「自己肯定感が低い人は他人の成功を喜べない」

ビジネス系の「承認欲求」というキーワードを勉強するとよく目にするフレーズだ。

 承認されれば他人を否定しない人間が育つという理屈だ。

 ただ、ライバルの成功を耳にすると心がザワザワするというのは決して自己肯定感が特別低くなくても全ての人間が経験するという意見も聞く。

 遥か昔、そもそもホモサピエンスという「種族」は、他のライバルたちを殲滅、駆逐しつくして生き残ったという歴史があると知った。つまり敵を「殲滅」してきたからこそ今の我々がいるのだ。

 だとすればその我々の身体にあるDNAには「敵は駆逐するのが正義」ということが本能的にインプットされているはずなのだ。だからこそ、「敵」の成功は、自分の生命を脅かす脅威と本能的に感じとって、他人の成功を見れば「ザワザワ」してしまうのだろうと思う。

 しかし、今の社会でそのDNAという本能むき出しで生きていくことは不都合であることが多いのは皆が知るところである。だから我々はその本能を社会に適応するためにコントロールする必要が当然ある。

 宗教の教えだって、そんな智慧に違いない。

 しかし、上述したビジネス書が語るように本能にプラスして「自己肯定感」が低くなるような経験をしてしまうと(虐待、いじめ等)、どうしても自分を守るための防衛反応が強くなり中々相手を称賛することができず「攻め心」が優位になってしまうという話をよく聞くし、実際にそんな人に多く出会う。陰口、悪口が絶えない人がまさにそんな人だ。むろん私だって、本能の罠にはまり悪口が頭を巡ることはいくらでもある。

 今回の学びはホモサピエンスという「本能的な部分」と場合によっては「家庭環境」によってより強力に社会に出力してしまう攻め心を回避する手段として、スポーツの「習慣」「文化」として学ぶ機会が現実に存在することが分かったこと。

 頭では分かっているがなかなか抗えないのが相手への「攻め心」だ。

 パークというスポーツで身をもって「行動して」見せてくれた彼ら彼女ら(そして彼ら彼女らはみなまだとても若い)。

「行動で示せる習慣、文化」という環境を作る。

 これはもちろん我々大人の仕事であることは間違いない。

 我々大人が他人の悪口で刹那的に自己肯定感を満足させている場合ではない。

 

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