地道に密教修行

天台寺門宗の祈祷寺院にて密教の修行しております「亮和(りょうな)」と申します。修行、信仰を通じて感じたことなどを綴っていきます。※過去(本格的な修行前)に「地道に観音信仰」というブログを運営しておりました。どうぞ気楽にコメントいただけると嬉しいです!

「きみはまだ、抱いていたのかね?」課題の分離について

 私の好きなエピソードがあるので紹介したいと思います。「ニューアース」というネオ・アドヴァイタの火付け役になった?(個人の感想)エックハルト・トールの「ニューアース(サンマーク出版)」で紹介されていた二人の僧のエピソードです。

 

『担山という禅僧が、友人の僧と一緒に豪雨のあとでひどくぬかるんだ田舎道を歩いていた。村の近くまで来ると、道を渡ろうとしている若い娘に出会ったが、水たまりが深くて着ている着物が汚れそうだった。担山はすぐに娘を抱き上げて水たまりを渡してやった。

 そのあと二人の僧は黙々と歩き続けた。五時間ほどして、その夜の宿になる寺が見えてきたとき、友人がとうとう黙っていられなくなって口を切った。「あなたはどうしてあの娘を抱き上げて、道を渡してやったのか?」。彼はそう言った。「僧というものは、ああいうことをすべきではないと思うが」。

「私はもうとうに娘を下ろしていたのに」と担山は答えた。

「きみはまだ、抱いていたのかね?」。』

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 これは所謂「触女人戒(異性と接触することの禁止)」という戒を目の前で破った担山のことに腹を立てた「友人の僧」がモンモンと五時間もの間、そのことを考えて歩き続けたがついに我慢できずに「文句(指摘)」をしたという場面なんでしょう。

 

 ただ、現実的にその友人の頭の中で何が起きていたかと言うと「触女(女性に触れた)」ということに執着して五時間もの間そのことが頭から離れなかったということ。

 つまり、友人は物理的に異性に触れた訳ではないけど、頭の中で娘に触れ続けていた(抱いて)いたのは友人の方だったというオチですね。

 

 まあ自分が必死にその欲望を「抑えて」いたから、悔しくて、もっと言えば心の底では(本人が認めずとも)羨ましかったのでしょうね。

 

 こういう「妬み」の感情をぶつけるという行為が、今や社会に問題になってますね。最たるはネットなどの「アンチコメント」でしょう。「アンチコメント」にはこの「妬み」が根っこにあるのは確実だと思われます。

 このような現代社会の心の闇を想うと、最近アドラー心理学の「課題の分離」がフューチャーされるのがよく分かる。

 

 もしそんな「悪意」に晒されときはアドラーの得意のセリフを思い出すと、少しは心が軽くなると思います。

 

「それは相手の課題であって、私の課題ではない」

 

 つまり相手が「妬み」の感情を抱いてしまったのは、冒頭の友人の僧のように「その人の課題」であって、その感情をぶつけられた人の課題ではないと理解するということです。だからその課題を解決できるのは「私」ではなく「相手」なので、その件については積極的にスルーしましょうという提案になります。

 

「スルースキル」なんてワードも最近ではよく耳にします。

 

現代においてこのスキルは必須だよな、と思うこの頃。

 

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