准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

しんどいの?それはラッキーだね!

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「祈願のお願したから、また最近、色々しんどいことが多くなったきたよ」

「おお、それはラッキーだね!」

 昨日、久しぶりに会った兄妹弟子との会話。

 この会話、『おかしい』って感じましたよね?

「祈願(お願い事)してる訳だから願いが叶ってハッピーにならなければいけないのに『しんどい』で『ラッキー』どういうこと?」

って思うのが普通ですよね。

 もちろん「しんどくなりますように」なんて祈願をしている訳ではないのですから(笑)


 あくまで経験的な話をします。「そんなことはない」というご意見もあると思いますが、まあ聞いてくださいな(^^)

 ここからの話は、こと仏教を「修行」として捉えている方々にとって結構「それある!」と思ってもらえるのでは?と思います。

『果報は寝て待て』

といいます。

 「願い事」をしたら、寝て待っていれば叶うのか?ただ待っていれば願いが叶うこともあるのでしょうが……実際はそうなってくれないこともありあすよね?

 そもそも、この諺を誤解している人は多いと思われますが、『果報は寝て待て』の「果報」は仏教用語で、「因」と「縁」の結果「果報」ですから、本来的な意味を考えても寝てても果報はきやしない(笑)

kotobank.jp

 

 一番分かりやすい例で言えば合格祈願をしても勉強しなければ合格できないなんて当たり前の話です。

 ただ、今回はそんな仏教用語の解説をするのが目的ではありません!

 

 ということで、ここから本題。


 あなたがお願いした「祈願」に対して、例えば「今のあなたではその祈願叶えるのは無理だよー」と仏さまが返事をくれたとしましょう。

 むろん仏さまの声がダイレクトに聞こえる人なんて、おいそれといないでしょうから?仏さまの「無理だよー」という声は願主には聞こえません。

 じゃあ、仏さまどうすると思いますか?

 ちゃんと「レス」をくれると私は思っています。

「そんなバカな!!」って思いますか?そう思ってしまう人は「信仰」を持ちにくい人なのかもしれません!?

 我々はこの仏さまの「レス」のことを「験」と言ったりします。

 「験が出る」という意味を「願いが叶った」とイコールと思っている人が多いと思いますが、ちょっと違うと思います。


 さて、そろそろ眉に唾をつけ始めている人もいるかもしれませんが!?

 でもね……仏さまはともて面倒みがよくてちゃんと具体的に「やるべきこと」を教えてくれるんですよ?

 少なくとも我々は「あの手この手その手この手」で、その祈願が叶うための色んな「気付き」の機会を仏さまが与えてくれると信じています。

 そんな仏さまが与えてくれる「気づきの機会」が、「与えられた本人」には「しんどい」ことが実は多かったりします。

 例えばこんな感じの「しんどい気付き」があります。

 曰く……

「会社で後回しにしてた仕事が、突如発火して大クレームになる」(その願い事を叶えるにはスピード感をもってすぐ行動しなきゃね)

「陰口言っていた当人に、急に仕事を助けてもらって罪悪感に苛まれる」(その願い事を達成するために沢山の協力者が必要だよ)

「段差に気付かず、足を踏み外しつんのめって転ぶ」(足元を疎かにするな→基本に戻って勉強しなさい)

etc……この例のように願い事とは直接関係のない場面を使って「気付かせる」場合は、アンテナが立っていないと気付くのが難しいかも。

 例えばこんなことが立て続けに起こると、普通は「なんだよ、ついてねーな」となります。ただそこに「信仰」があればこれらのアンラッキーが、祈願成就のための「仏さまからのアドヴァイス」として受け取れるようになります。

 だから仏教の修行をしているならば「願い事したんだから、きっと仏さまからのレスがあるはずだ」という感性がますます磨かれていくことになります。

 それが進むと「全ての事象に意味がある」とか「日日是好日」なんてちょっと小難しい理解にまでたどり着けるチャンスまであります!?

 冒頭の「しんどいことが多くなってきた」ということを「ラッキーだね」と言った理由はもうお分かりですね。冒頭の会話は「そんなに沢山のレス=験が出てるなんてラッキーだね」という意味になります。

 さらに超個人的、主観的感想を述べるならば……

 特に修行者が願い事をすると、その願いを叶えるためにというより、「願い事もいいんだけど、その前にさあ行者としての振る舞いから直せよ」とばかりに仏さまからの「厳しいご指摘」が入るように思います。

 だから、行者が願い事をするときは「心してせにゃあかんぞ」と個人的には思っています。そんなときは「アンラッキーなこと」が起きるたびに「あれ?何が悪かったんだ?」という自己点検する「癖」が染み付いていきます。

 

 ……ということで、その兄弟弟子と話をして出た「今日の結論」は「願い事は沢山したほうが修行がすすむのでは?」ということでした。

 まあ、この結論があってるかどうかは別にしても、弟子同志、経験を持ち寄ってこんな考察をするのもまた学びよな、なんて思いました(^^)

 

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