以前にも話題にしたキングコング西野。彼のコメントはいちいち的をついているので、私は彼のユーチューブは必ずチェックするようにしている。その西野がまた鋭いことを言っていたので共有したいと思います。
西野が話していたのは「ユーチューブは社会進出するためのドレスコードになっている」のでユーチューブをやっていない企業は「会社の固定電話がない」というくらいになってきていると話したうえで……「ビジネス系のコンテンツはもう流行らないから止めた方がいい」という話をこの動画でしています。
例えば「幸せになるためには」ということを書いている図書であるとか、動画であるとか、講演であるとか。
西野が「もう流行らない」と言った理由は、すでにそれらの正解は出そろってしまっているからということと、さらに誰も「もう正解はわかったらいいよ」という空気感があるから、ということ。
確かにそう思います。ビジネス系のユーチューブを探して回れば恐らく十分すぎる程の正解がいくらでも出てくる。
だから目新しいことをなんてどこにもないということ。だから新規参入は難しいのは確かにその通り。
するとこれはそのまま仏教界においても同じことが起こっている思った。
つまり、仏教の正解についてはもう出尽くしているであろうと。それはそうですよね。なんたってすでに2500年の歴史があるからどうやってももう正解は出尽くしている。
では、我々仏教徒は「語ることを止めていいのか?」というと決してそうではないことも知っている。ここが「ビジネス」と「宗教、信仰、布教」の違いかなあとも思う。
その理由を考えた時に、一つの答えが自分の中にはある。
「同じ言葉でも言う人が変われば受け取り側の”入り具合”が違うのだ」
ということ。
これは何も「しゃべり方」とか「言い回し」といったテクニックの話ではなく(もちろんそれも重要だとは思うが)、その人そのものの「実績」だとか「人生」だとか、場合によっては日ごろの言動や立ち振る舞いであるとか……そう言った「土台がある人」であればたとえ言い尽くされた誰でも知っていることを話しても(書いても)、それを聞く側(読む側)の受け取り方に天と地の差が出る。
さらには「縁」の話。「その人にとって」その話をする人がどういった「縁」でむつびついているかでやはり「話」の入り方は変わってくるのは明らか。
例えば「師」と「弟子」が一番分かりやすいですし、場合よっては「親子」や「恋人同士」なんて縁も強く働くかもしれない。
「何事もあきらめないことです」
この誰でも言える使い古されたセリフも、例えば千日回峰行者の大阿闍梨の口から出ればそれを聞いた側の捉え方は全く違ったものになるのは誰にでも理解できると思います。
こんな雲上人でなくても、目の前で頑張って実績を出した「同僚」が言う言葉だって、人によっては「心に入ってくる」ケースだってあるでしょう。
で、今日の結論は……布教するなら
「それでも言い続けるしかない」
という事だと思いました。
上述した「縁」を増やすには、「機会を増やす」というのは一つの正解だと思うからです。
私の言葉が響かない人は大勢いるでしょう。でももしかすると100人に1人には響くかもしれない。でも言わなければいつまで経っても、響かせることのできる人の数はゼロです。
言葉を発信することにはリスクが伴います。
でもそのリスクを乗り越えて、さらにどんなに相手にされなくても、ひたすら発信し続けることで、助かる人が一人でもいたらそれでいいじゃない。ゼロより一人の方がとっても価値がある。
まあ、今そんなことを自分に言い聞かせてブログを書いているんですけどね(笑)
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