昨日の記事でいかにも話しかけてきそうな「狛犬」の話をしました。
その記事では「形」の中に、神が宿る可能性(心理学的には集合無意識化する可能性)について考察してみました。
さて、「偶像崇拝の禁止」というフレーズは、ここの読者の方ならきっと耳にしていることと思います。仏教の最初期では「お釈迦様の姿を人間の姿であらわすことは恐れ多い」という理由で偶像は禁止されました。実際に当時の仏教のモチーフには肝心のお釈迦様の姿は描かれていません(下の壁画は中央に「誰もいない」という表現をしていることが分かります)
(引用:仏のイメージを読む 森雅秀著(大法輪閣))
普通に考えても、仏のような尊いもの、崇高なもの、おそれおおいものを、どうして木や粘土や金属等でできた彫刻や、絵の具のかたまりでしかない絵画に置き換えることが出来ようか?という発想は大いに納得のできるところです。
そのために先人たちは上述したような「物質でしかないもの」を「生きた仏」にするために、様々な工夫をしてきた訳です。
一番分かりやすい例では「開眼=魂を入れる」儀式でしょうか。これは「儀式」の力で物質を仏にする工夫です。
しかし、このような「儀式」とは別に昨日の記事にした通り「形そのもの」の力によって、つまり狛犬に「生命力」を感じたように、「形」の力によって「仏」をそのものに近づける工夫も多くなされてきたように思う。
仏教……特に密教の神仏の形式が「経典」や「儀軌」などの文献で厳密に規定されている理由の一つに「形」が力を持つことを経験的に知っていたのであろうと想像する。
例えば、極端な話を敢えて分かりやすいようにするならば、最近はやりのアニメーションの「フィギア」を「これを観音さまとして開眼する(魂を入れる)」なんて言っても無理だということは誰でも納得できると思う。
その理由はその「フィギア」の「形」が観音さまではないからにほかならない。だから「観音さま」なら「観音さま」になるための最低ラインの「姿」を先人は「儀軌」にしっかり残しているのは当然といえば、当然のことだと思う。
ただ、現実的には日本で見られる多くの仏像は、必ずしも「経典」「儀軌」に忠実な物ばかりではない。これは例えば高僧や阿闍梨による「感得」によるものであればまったく問題ないと思うが、単に無知(もしくは儀軌を「無視」)した形と言うのは密教修行者の立場の私としては賛成できない。「形」には「聖なるものが宿る」という発想は、確かなものとして存在していると私は信じているから。
この仏像、仏画の「形」という事において、おそらく日本よりもっと厳密なのが「チベット仏教」であるという話をよく耳にする。
手元にある資料でもそれが伺えるものがあったのでちょっと参考までに紹介します。
各パーツのサイズはおろか、角度までバッチリと規定されています。
この図の解説文の一部を抜粋します。
『尊格を6種類の法量に類別し(中略)各尊格の身体比率に準拠した基準線と標準的な尊様を定めて絵師の作業を標準化し(後略)』
標準化という言葉が出てきます。つまり「変えてはいけないところ」をはっきりさせてどの絵師が書いても「基準」を逸脱しないためのルールということでしょう。
「仏」に限らず「聖なるもの」を表現するために、時にこれほど厳密な規定があったというのは知っておくべきだと思いました。
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