本堂の「尊格配置」について。
すでに長い歴史を持つお寺なら、その仏像の配置を勝手に替えるなんてことはないとだろうと思いますが、これも実際のお話を伺ったことがないので何とも言えません。
ただ自分で道場、教会を開くとなるとその本堂の仏像配置はその行者に委ねられることになるので皆なんらかの「ルール」「想い」があって配置していることと想像しています。
これを「自力で」やろうと思うはやはり最低限の「知識」は必要になると思います。
例えば「○○寺形式(様式)」と言った三尊像の配置などの情報は多く知っておくべきでしょう。
時に「感性」のみを頼って配置する方々もいるようですが、例え感性でそう感じたとしてもその背後にある儀軌であるとか経典でその配置を答え合わせする努力は必要だと思います。
よほどの行者が感得した、という話と、まだまだ行が足りない自分と同列に語ってしまうという「自我肥大」は要注意だと思いっています(自戒の意味を込めて言っています)
ということで、まだまだ博学とはいえそれなりに尊格のことを勉強してきたと言う僅かばかりの自負を引っさげて?「私はこうして尊格の配置を決めた」という話をしてみようと思います。
無論、間違いなどもあるかもしれませんので「それは明らかにおかしいぞ!」というご指摘があればコメント欄で頂けると幸いです。
ではまず我が家の本堂の写真から。
見ての通り中央には本尊の「准胝仏母」です。脇侍は置いていません。しかし儀軌的には蓮華台の下に難陀・跋難陀龍王がいるべきです。今後の課題としてはこの両龍王を自分で作る必要があると思っています。
准胝仏母の真ん前中央に坐すのは「四臂観音」、厳密には「六字大明」です。准胝仏母と四臂観音との関係は過去に詳しく書いているので参考にしてください。
四臂観音自体は後期密教形式なので日本的容姿ではありませんが、意味合い的には「聖観音」なので、四臂観音の両脇は馬頭観音、如意輪観音という変化観音で固めています。
毎日のお勤めの際には「本尊」→「四臂観音(聖観音)」→「馬頭・如意輪観音」と言う意識の流れはとても感応しやすいので個人的にはとても「拝みやすい」という配置と思っています。今後は「十一面観音」「千手観音」「不空羂索観音」を配置して六観音を全てカバーすることも視野に入れていますが、現状まだそのキャパはありません。
前の住まいではこの観音ファミリーの下に「焔摩天」を配置していました。そしてその焔摩天の配下という意味で焔摩天の下に「荼枳尼天」「歓喜童子(香合仏)」を配置して両尊な焔摩天の眷属として視線と意識を移していくやり方がしっくりきていました。しかしながら新居では観音の前に(稲荷明神系の)「荼枳尼天」「歓喜童子(香合仏)」を置いて焔摩天は別に壇を持ちました。「荼枳尼天」「歓喜童子(香合仏)」は荼枳尼天=稲荷伸としては如意輪観音本地、歓喜童子(香合仏)十一面観音本地という具合に観音とかかわりの深い天部という意味で「意識」を合わせられように現在修行中です。
これだと焔摩天が、親分である准胝仏母との関係性を意識しにくい配置なので、もう少し工夫が必要かもしれません。ちなみに先日記事にした「守護神」として自作した密教系の荼枳尼天はまだ開眼していませんがこの焔摩天の脇侍に配置しています。
この焔摩天・荼枳尼天だけ独立して配置しているので、ここだけでは少し「死」の色が強いので確かに他の尊と分けて配置する方がいいとも考えています。まあ「死」といってもそれは「生」との裏返しなんでネガティブなものでは決してないのですが。
最後に上述尊格とは別系統?で不動明王は壇の中央に倶利伽羅龍王と共に祀っています。現時点では准胝尊と不動明王を交互に本尊に行しているので、例えば不動尊華水供をするときはより近い場所に配置したお不動さまとより密に行ができるのでこの配置も私にとっては拝みやすい配置と思っています。
経験的には最初は「違和感」を感じてもおいおい「分かってくる」とこともあるかもしれないので「違和感」を感じつつもある一定期間はこれで継続していくつもりでいます。
最終的には儀軌や経典などをさらに研究しつつ独りよがりにならないよう注意ながら、最後は自分の感覚を尊重することも大事する……なんてバランス感覚を養うのも修行かな?なんて考えています。
尊像の配置だけでも「ぼ~っ」と決めずに色々意識的に配置してみるとそれが修行にもなると思うこの頃です。
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