『其狐疾走如金翅鳥一翼翔一千里』
昨日、参拝いただいた方(昨日の記事参照)が「スラスラ」と口にしたあるお経の一節。
自力で荼枳尼天のお像を作る際に典拠にした「刀自女経」の一節です。
私はむろんすぐに分かりましたが、例え荼枳尼天信仰のある方でもこの一節を「スラスラ」と口から出ないですよね(汗)
訳せば「その狐は金翅鳥が翼をひと「はばたき」で一千里飛ぶが如く疾走する」とでもなりましょうか。
この方は「大黒天」「荼枳尼天」の篤信者さんです。驚いたことに「刀自女経」もよくお唱えするという。
自然、話題は荼枳尼天に及んだ。
その際に、荼枳尼天についてまわる「怖い」というイメージはどこから来るのか?という話に。
普通、荼枳尼天はもともと「鬼神だから怖い」というのが定説。これは典拠もある正しい解答だと思う。
これについては過去に記事にしているので参考にしていただきたいのですが、
個人的には記事にあるように、荼枳尼天と同一視されることもある「八臂弁才天」の「闘神」の属性を多く引き継いでいる、という解釈がよりしっくりくる。
まずは以下の引用文を見てください。
金光明最勝王経にある弁才天の容姿を説明する一節
「母となって世界を生み出し、勇猛にして、つねに大いなる精進を実践している。戦争においては必ず勝ち、美しさと醜さを兼ね備えて、その目は彼女を見る者を怖気けさせる」「この女神は山の奥深く険しいところ、洞窟、川辺、あるいは叢林の中に住する。孔雀の羽で幢旗を作り、いつも世界を守っている。獅子、虎、狼に常に囲まれ、牛、羊、鶏も近くにいる。大きな鈴鐸を握って大音声を出して、ヴィンドゥヤさんの人たちもその響きを聞く」「手には三叉戟を持って、髪は丸く結い上げ、左右はつねに太陽と月の旗を持つ。ヴァースデヴァの妹として姿を現し、戦闘があるのを見て、いつも心に憐れみをもつ。「牧牛歓喜女」となって現れ、天と戦うときはつねに勝利をおさめる」「偉大なバラモンの教えや呪術にことごとく通じている」「もろもろの天女たちが集会するときは必ず姿を現し、もろもろの龍神や夜叉の集団の中では、その上首となって調伏する(仏教の女神たち 森雅秀著 春秋社)より引用」
これはヒンドゥーの文献をほぼそのまま転用したという事がすでに明らかになっているようです(「マハーバーラタ」の「ドゥルガー賛歌」とその補遺文献である「ハリヴァンシャ」の第四七章「聖なる賛歌)。
「淵源がどうの」というのは信仰とはまた違ったベクトルだと思いますが、個人的には上記引用を見れば弁才天がドゥルガーに匹敵する「闘神」であることに全く違和感を感じない。だから八臂弁才天の化身ともいえる荼枳尼天の「怖さ」の種類もこれに近しいと思えてならないのだ。
こうなってくると、ドゥルガーの属性を色濃く踏襲し、荼枳尼天の「怖さ」の要因にもなっている八臂弁才天の「闘神」としてのイメージが准胝仏母に入り込んでしまって困惑している。具体的には荼枳尼天が、准胝佛母にある「闘神」という要素を凝縮した姿に思えてならなくなっている。
「え?なんでここで准胝仏母が出てくるの?」
と思われたと思います。
理由は、准胝仏母の十八臂ある容姿はドゥルガーの影響と言われるからです。ただし誤解してはいけないのは准胝仏母=ドゥルガーではありません。この話は下記記事で詳しくしていますので参考にしてください。ここで言っているはあくまで「容姿」の話。
私の准胝信仰と荼枳尼天信仰を結びつける「カギ」は荼枳尼天の親分であり、准胝仏母の部下である「焔摩天」という繋がりが根っこにある。
しかし最近はそれにプラスして荼枳尼天のお姿を見ればその背後に大きくそびえる准胝仏母のお姿を感じるようになるにまでになった。これは超個人的「観想」になるが、根拠が全く無い訳でもないし自身の信仰をプラスに強化する内容と思われるので自分の中で否定する必要もないかな?とも思っている。
……とまあ、こんなマニアックな話を昨日はまたぶちまけてしまい「やや引かれた?」かもしれません(笑)
PS)師僧の著書「荼吉尼天の秘密」が再版されたようです。まだの方はこれを機会に是非読まれることをお勧めします。
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