なぜ密教の修行をすることを選択したのか?
私や周りにいる上座の方、同期の兄弟弟子と話してみても、その答えは決して同じではなくその思いは「いろいろ」であることが分かる。
私は場合どうだったのか?という事に関して割とはっきりしている。
それは「その決意」をした時が、前のブログを書いている時期で、そのことをしっかり記事としても書いていたので私もよく覚えている。
当時は、恥ずかしながら「世のため人の為」ということを意識はしておらずただただ「もっと拝みたいから」という以外に理由はなかったと記憶している。
もちろん「拝む」ということは密教をせずとも可能ですね。
でもなぜ「密教」を選択しなければならなかったのか?
それは私が密教の行者でなければ拝めない神仏を拝みたくなってしまったからです。
具体的には以前のブログにも記事にしたのですが、摩多利神(七母天)の掛け軸を手に入れた時、はっきりと師僧からは「これはあたなが持つべきものではない」と言われました。だから即刻「発遣(魂抜き)」してもらい「むやみに開けないようにしまっておくように」言われました。
この時私は「ああ、それなら仕方ない」とはならずに「だったら密教をやらねば」と思ってしまったんですね。
誤解してほしくないのだけれど、別に私自身が摩多利神のご後利益が欲しかった訳ではありません。疫病神である摩多利神に火急に助けてもらう状況でもなかっですし……ただ理由もはっきりせず「拝みたい」しかなかったように思います。
この「きっかけ」となった「拝みたい」という理由は正しいのか?正しくないのか?ということを考えた時に、人によっては「それはただの自己満足じゃないか!けしからん!」とのおしかりを受けるかもしれません。
ただ「きっかけ」に関しては「大正解」でスタートするのは結構難しいのかな、とも思います。だって誰だって最初は「無知」からスタートする訳ですから。
事実、きっかけがどうであれ、修行の過程で「その人なり」の「試練」を突き付けられて(それは大抵、相当しんどい)「その人のなり」の「方向性」が示されていくように思います。私と、また周りを見ていてもつくづくそう思います。
自分の「間違い」に気づかされては「学んで」「直して」の繰り返し。未だに私なんかは間違いに気づけなければ、いつでも神仏から「終了」の「引導」を渡されかねないとう恐怖感すらあります。
だから常に「感度を上げて」「謙虚に学ぶ姿勢」は忘れず「生涯修行」の覚悟は必要不可欠だと思っています。
ただふと自分の本音を探っていくと、そんな「学び」を多く経験しつつも(もう摩多利神に限ったことではなく)「もっと神仏を深く拝みたい」という気持ちは自分の中心に依然としてあることに気づかされる。
自分が進むべき道が示されて、そのために「~ねばならない」ということをやらねばならないとき……「もっと拝みたい」という気持ちがそれを後押ししてくれる。
だから「この想い」は大事に胸に抱えて、この先も進んでいきたいと思っている。
たとえそれが「自己満足」でも……
記事が参考になったら
クリック↓お願いします!