准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

荼枳尼天の持物に思いを巡らせる

 私がはじめてお招きした「天部尊」は「荼枳尼天」です。厳密には「智剣」と「宝珠」を持つ密教荼枳尼天ではなく「鎌」と「藁束」を持つ所謂「最上稲荷高松稲荷)」のお姿をした「荼枳尼天」です。

f:id:spincast:20200725095713j:plain

「鎌」と「藁束」から連想するイメージは「稲荷=農耕豊穣神」となりますでしょうか。同じく「藁束」を持つ「荼枳尼天」がいますね。右手に「藁束」を持ち、左手に「宝珠」をもつ豊川稲荷

f:id:spincast:20210106110244j:plain

 こうして持物が違うお姿を見ると、いろいろな「想像」がでてくる。

 藁束というのはつまり「稲」であり、稲からとれるのは「米」である。「米」は「舎利」と同一視されることから、「宝珠」と同義でもある。だから「宝珠」の代わりに「藁束」を持つのは「農耕豊穣神」としてのイメージは強いものの理屈に合っている。

 「宝珠」「舎利」「稲」……これはつまりどれも「増益」の象徴ということになると思うが、「増益」が過ぎると、人間にどうしても「煩悩まみれ」となるリスクがありますね。

 密教荼枳尼天はだからそんな煩悩を断ち切るために、リスクヘッジとして「智剣」を持っている、なんて想像も出来てきます。

 だから個人的には「剣」を持たない最上稲荷を前にするときでも「宝珠」のイメージばかりでなく「智剣」のイメージも強く併せ持つようにしている。きっとそれが安全であり、きっと荼枳尼天さまだって煩悩まみれにならない願主なら安心して「益」を与えようとするのではなかろうか?なんて考えている。

 そう考えてみると「藁束=宝珠」であるならば「藁束」と「宝珠」を持つ豊川稲荷は「両手に宝珠を持っている」とも言えなくもない。より「増益」に特化した神さまなんですね。もしかすると曹洞宗ゆえに「禅」で煩悩を排除するのが前提になっているのかな?なんて勝手な想像をしてみたが……どうなんだろう(個人の妄想です)。

 さて、冒頭に戻ると私がお招きした最上稲荷の持ち物は「鎌」と「藁束」なので、上述の理屈に合わせるなら「智剣」が「鎌」になって、「宝珠」が「藁束」になったとすれば密教のお姿と意味合いは同じになる。

 でも確かに「鎌」は「武器」にもなるが、普通に考えれば「鎌」はどうやっても稲を刈る道具である。だから肩に担ぐ「藁束」を取り込むために使った「鎌」と考えるのが自然な解釈だ。

f:id:spincast:20210106110644j:plain

 しかしですね。私がこの最上稲荷のお姿をした荼枳尼天を前にするとき「鎌」を「智剣」とイメージしてお勤めをするようにしています。これは上述した「煩悩排除」という理屈もそうなんですが、そもそも「その理屈」にたどり着いたのはちょっとした「体験」があったからでもあります。

 その体験というのが、ある時、この荼枳尼天さまを前にして勤行していると、「般若心経」をお唱え始めた途端「鎌」が急に「キラキラ」と光って見えたことがありました。おそらくは部屋の明かりが偶然「鎌」に当たって反射しただけだと思います。ただ私的には「般若心経」という「空」を説くお経に差し掛かったところで「鎌が光った」というシンクロニシティ―に「なんか意味があるな」と思いました。そしてすぐに「ああ、この鎌は智剣なのか」ということに思い至った訳です。

 以来、私の中ではその「鎌」は「稲を刈る」という「増益」とともに、「煩悩」を断ち切る「智剣」としてイメージするようになりました。

 またそんな「智剣」のイメージが生まれたのは、この最上稲荷は師僧から密教で開眼していただいていることとも関係があるのかもしれません。

 さて、今回ご紹介した体験はあくまで「個人的な体験」なので、誤った解釈をしているかもしれません。それでもこのように「神仏」と接していくうちに少しずついただける「ヒント」の積み重ねもまた修行かなとも思います。

 だから皆様も是非、お勤めされるときはいつでも神仏からの「ヒント」を受け取れるように、ボーっとお経を読むのではなく常にアンテナを高くしておくことをお勧めします!

 

記事が参考になったら

クリック↓お願いします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村