朝方、影信山山頂から記事を書いた。
八王子に来てから登った「低山」……
城山湖畔の「牡龍籠山 (標高253.1m)」、津久井湖畔津久井城跡のある「城山(標高375m)、八王子城跡のある「深沢山(標高445m)」、そして今日の「景信山(標高727.1m)」。すべて自宅から車で30分程度で登山口まで行ける「低山」だ。
なぜ毎週、そんなに「低山」を巡っているのか?という話。
私は仙台在住の時にも意識していたことに「日常修行ができる山を探す」ということがありました。そして仙台時代の記事では、そんな近場の「山」に関する記事を書いたこともあった。
天台寺門宗の教法は、『円(顕教)・密(密教)・禅・戒の四宗兼学を称揚する天台の教義に加えて、修験道の法門を重視する』とある。
コロナ禍になる前には毎年、本山で主催される「大峯奥駈道縦走」や「葛城修験」といった行に参加してきた。完全に日常から隔離され、また肉体的に精神的にも非常に厳しい修行であり、それを修験道の「根幹」にある霊山で、ということの意義は計り知れない。
ただどんなに意義のある修行といっても、年に1~2回しか修行ができないという制約がある。もちろん時間的制約がなく、年に何度もこれらの山で修行される方もいると思うが、今の私の状況、環境ではとてもそれは適わない。
だから毎日、「密教の修法」をするように、「日常的に山に入る」という修行をしたいという思いがある。それを可能にするのは「地元」にある山で、しかもより「日常」実践するにはすぐに行けて、すぐに帰ってこれる「低山」であることも条件になる(時間的制約のある私の場合)。
そんな「低山」で修行になるの?という疑問。それは「自分次第」だと思う。「ハイキング」と思って山に入ればそれは「ハイキング」。でも「修行」と思って入ればそれは「修行」になりうる。意識が変われば、その「山」で多くの学びがある。
また日本の山はたとえそれが「低山」であったもほぼ「祈り」の痕跡がある。つまり昔の修行者はそんな低山も修行の場としていたことの論拠だと思う。
低山だってその風景は「日常」のそれではない。余談だが、「影信山」の「ど正面」に筑波山が見えるのが印象的だった。筑波山が元地元で思い入れがあるという話は、つい先日話をしたばかり。「今日一」の風景がその関東平野を挟んだ先の筑波山です。
本当はこのアングルから富士山が見えるはずだが、今日は叶わなかった。……今日は筑波山に軍配だね。
ただ、皮肉にも夕方近所で太陽が沈む瞬間の富士山が見れた。これはこれでラッキーだった。もう少しでダイヤモンド富士ですね。
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ある整体師の仕事をする行者さんは、整体師の仕事でどうしても患者さんの悪いものを「もらってしまう」ので、それをクリーンアップするために山に入る必要がある言う。
また修験の祈祷を専門にする方から「山に入らないと力が落ちる」という話も聞いた。これらの人たちは「年に何度」という話ではなく「日常的に」山に入ることの重要性を説く。
早くこの八王子の地で、できれば月に何度かは訪れることができる修行の山を見つけたい。だからしばらくは「低山巡り」は続けていこうと思っている。
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