准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

だからあなたも山へ行け!

「山が何かを主張している」
「山が何かを訴えている」

 こんなことを書くと「また変な妄想話が始まるのか?」なんて顔を顰めてしまう人もいるかも知れない。

 私がいまさら言うまでもないが、「山」が人間の心、もっと言えば「深層心理」に多大な影響を与えているのは間違いないなさそうだ。
 特におおよそどの地域にいてもその視界に「山」がある日本では、その影響力は尚更であろうと想像する。
 そんな「山の持つ影響力」について「深層心理がー」とか「大地のイメージとしてのグレートマザーがー」など近代の深層心理学で語られる遥か以前に、日本人は直感的に「その力」に気づきそれを「神」と呼び崇めたのだろうと想像できる。

 卑近な例を持ち出して恐縮だが、妻は自分のことを「私はHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン) だ」と自認している。
www.madreclinic.jp

 確かに人より感受性が鋭敏であまり人が気にならないことに目が行きすぎるきらいが妻にはある。そして、ときにそれは「生き難さ」と感じる原因にもなるようだ。
 そんな妻が、茨城県から仙台に越してきてよく言っていたことに「この土地は圧迫感が酷い」と言うものだった。私には全く感じることのない「その感覚」を確かに妻は感じているようだった。かといって妻が言っているのは「超自然的な何か」とか「霊的な何か」という特殊な感覚の話をしている訳ではない。妻が言っていたのは「常に視界の周囲に山がある」事にとても閉塞感を覚え、それが自分を圧迫してくるように感じるのだという。

 先に「日本ならどこにいても山が視界にある」と書いた。しかし、実はそこから外れる例外的な土地がある。「そこ」は広大な関東平野にすっぽり囲まれた関東の一部の土地だ。妻の実家がある茨城県南部は正にその際たる「場所」であった。物心ついたころから「地平性が見えるのが当たり前」という環境で育った妻は、ただその地平線を遮る「山」の存在に違和感を覚えた。
「地平線が山で見えない」……そんな事が、自分を不安にさせるという感覚は、私はむろん持ち合わせていないので「その感覚」が不思議でならない。
 しかし思い出せば、確かに茨城県在住の時、視界に入る山は筑波山くらいであった。筑波山は綺麗な独峰なので視界を占める割合はそれほど多くはない。だからおそらく住民の視野を邪魔する「山」はなかったと言える。

 つまり「視野」というのは、少なくとも目が見える人々にとって、とても重要な感覚器官であることは周知のことであり、それが屋外に出れば「常に付きまとっている」と考えればその影響力は絶大だということが分かる。
 さらにそれが「意識しようとしまいと」「勝手に」目に入ってくるということが「なおさら」深層心理には入り込みやすいのだとも思う。それが「そこで育った年数分の感覚」が心に刻み込まれていれば「影響がない」という方がおかしい。

 この話は「山」とは少し逸れるが、私がこのブログで展開する「持論」にも、大いに関わってくる。
 つまり……まず上述したように「妻」はその影響をもろに感じる体質であることが分かるが、それは一見感受性が強すぎて「生きにくい」という面はあるようにも感じる。しかし、私の「持論」だとそうはならない。私は「それを感じない人間(その一人は私であるが)」よりも「感じることができる人間」の方がまだ「まし」であると考える。
 私のように「感じない」人間でも「山の圧迫感等」に「感覚器官」は気づいている。つまり言い方を替えれば、「その感覚」を無意識下では感じているのが事実ということ。だから、それを感じないのは「思っている」だけ、で「深い心」は感じている、ということ。この状態は人間にとって決してこの好ましい反応ではない、というのが持論だ。
 こんな「好ましくない状態」が続くと「無意識」と「意識」の「溝」が深まり、「早く気づけ!」とばかりに無意識はその主張を強めてきて、最終的には「身体の不調」で訴えてきたり「予期しない出来事」で知らせてきたり……それは本人にとっては好ましくない形で知らせてくる。このブログでも同じような話を何度もしている。

 ということでこの記事の結論は、「日常の視界」に多大な影響力を及ぼす「山」への関心は日本人なら持っていなければならないだろうということ。「山?興味ないんだけど?」と無視してまうのは簡単だが、きっと深層心理下では「山」を「無視」できていない可能性が高い。だから先の記事で「日常的に山へ」という話をした。意識的に、修行目的で山に入れば、そこで感じる「感覚」に否応なしに「敏感」にならざるを得ない。
 前回の記事で「悪いものをクリーンアップする」という整体師の方の話や、「力が落ちる」という行者の話も実は「山の感覚」を意識的に感じることによって日常無視してきてしまった「感覚」を意識上に浮上させることで、より「無意識」という神仏の領域との「おりあい」が進みいろいろなことが「好転する」のだと想像している。
 言ってしまえば、この「論」は方便であり、それが実践できている人には必要のない「解釈」だとは思う。
 ただ、「なんで山に行く必要があるの?」と山へ行くことに二の足を踏んでいる人にとっては、山へ足を向かせるための方便になるかな?とも思って書いてみた。
 すくなくとも私はこんな考えも「山へ行く」ためのモチベーションになっている。「修行だから」の一言でアクションを起こせるほど強い人間ばかりではないと思う。たとえば、私のように。
 むろん、そう考えれば、その「山で感じたこと」というのは「修行で感じたこと」と同義であり、だからこそ「その感覚」はより無視はできないということになる。
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 さて、最後に……私はこの一連の「低山」修行でいろんな「感覚」を感じたのだが、その一つに「筑波山の存在」が妙に際立って主張しているように思えている。だから少し「筑波山」というキーワードを追いかけてみようと思っている。また何か新しい「発見」があるかもしれないと楽しみでしょうがない。
 皆もそんな「修行」によって新たな展開が訪れる機会を「山」を通じて増やしてほしい。そんな風に思います。

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