昨日は中国武術でいうところの「気功」を教える機会があった。
久々に自身にも「気を巡らす」ことを集中的に行ったのだが、「おや?」と思うことがあった。
先日から「肩が痛くてもはや服を着ることもままならない」という話をしたが、そんな「激痛」ともいえる肩の痛みが、「気の充実」を感じていた数時間、ピタリと止まってしまったのだ。
…… …… …… ……
「気」という言葉は、都合よく様々な場面で使われるのを目にする。
「この場所はプラスの気で満ちてる」
「この人からは凄い気を感じる」
「この仏像からは強い気を感じる」
「患部に気を送り込む」
etc……
このように使われる「気」の場合、明確な……例えば五感ではっきり感じるようなものとして扱わないようだ。
だから「具体的にはどんな感じなの?」と聞いても、明確な言語として説明出来ない人が多い。
時に「特殊な感覚」の持ち主で確かに五感でない何かでこれらの感覚を捉えている人もいるのでしょう。
でも多くは「気持ちがいい」とか「圧倒される」とか「畏怖を感じる」といった感情という「心の動き」を「気」という言葉で都合よく当てはめていることが多いように思う。
ただ、中国武術で扱う「気」は決して曖昧なものではなく、ハッキリとした「物理的な感覚」として扱う。だから、曖昧に感じるということはなく具体的な「圧力」「熱」、ときに「視覚」でも捉えることができる性質のものだ。
私はあくまで「武術」としての「気功」しかやってこなかったが、断続的に数十年継続してきたこともあって武術的な感覚として「気」を今では明確に感じることはでき、視ることもできる。
ただ、冒頭で書いたように「痛みを緩和する」という経験をしたのは始めてだったので少し驚いている。
そして、このことから一つの「気づき」があった。
確かに「人に教える」という機会であったが、同時に本格的に気功を再開する機会でもあったのだ、という気づきだ。
だから、しばらくは「肩の痛み」という自身の症状を使って「気功」がどう作用していくかを注意深く観察していこうと思う。
そして、ここで重要なポイントは昨日の「気功を教える」という「背後」には上述したように「縁」というものが根っこにあったということ。だから、そこに神仏の導きを意識せざるを得ない。
つまり言葉を替えればその「機会」は「信仰」のよって導かれたものであったということだ。
具体的にその疾患を直すのは、何も気の力でなくても病院での手術かもしれないし、薬の力かもしれないし、自然治癒力かもしれない。
ただ、その過程がどうであれ、その治癒に導くまでに様々な「縁」が作用して「治癒」という結果を勝ち取っていることに気付けるかどうか?だと改めて思う。
その気づきがあれば神仏への「感謝」に繋がり、より信仰が深いものになっていくはずだ。そう、プラスのスパイラルだ。
きっと皆さんの今日起こった何気ない出来事も神仏が導いた「縁」の可能性があると今一度振り返るのもいいかもしれない。
その「振り返り」も立派な信仰の形だとつくづく思うのだ。
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