「仏教」のテキスト以外に、私が影響を受けた図書の紹介をシリーズ化していこうと思います。まあ、いままで「シリーズ化する」といってシリーズになっていないものが多くあるんだけど(修行体験記とか……汗)、いろいろな切り口で記事を書きたいので長い目でご期待いただけると幸いです(^^)
今日ご紹介するのは、『七つの習慣』です。
有名な本ですから読んだ方は多いと思います。
私もことあるごとに何度も何度も読みましたので(今でも読んでます)、もうボロボロです。
カテゴリーとしては「ビジネス書」だと思いますが、ビジネス書という小さな枠に収まる本ではなく人生にインパクトを与える人生哲学書という評価がむしろ一般的だと思います。
世界で3000万部売れるほどに、全世界に影響力を与えた歴史的な思想書です。
私はこの本が「ビジネス書」の枠に収まらないのは「根っこ」に、ビクター・フランクル(ヴィクトール・エミール・フランクル)の存在があることが大きいと思っています(本書の中でもこれに触れています)。
このビクター・フランクルはナチス強制収容所での体験を元に著した『夜と霧』の著者として有名ですが、彼は神経科医で心理学者。ロゴセラピー(意味中心療法 ; 実存分析、英語: Logotherapy)の創始者として著名です。ロゴセラピーとは『人が自らの「生の意味」を見出すことを援助することで心の病を癒す心理療法』で彼の著書『それでも人生にイエスという』というタイトルにそのスタイルの全てが凝縮されている思います。
つまりこのフランクルのロゴセラピーに多大な影響を受けた『七つの習慣』は、ナチス強制収容所という「環境」ですら「人生にイエス」という答えを出した「生き方」がベースになっているということです。
その真骨頂はコヴィー博士が最初の「第一の習慣」に上げている「主体的に生きる」に集約されています。この本が分厚くて読み切れない人でも(480ページあります)、この第一の習慣だけは読んで欲しいと思います。
さて、あたなた「反応的に生きる」と聞いて、どう思いますか?
良い生き方だと思いますか?良くない生き方だと思いますか?
「反応的に生きる」ということは言葉を替えれば「周りに左右されて生きる」ということになるので、当然「良くない生き方」ですよね。
上述のフランクルの例で言えば「ナチス強制収容所」での辛い日々に「反応的」に生きればただただ「辛いだけ」の日々になってしまいます。『人生にイエス』なんてことには到底ならない訳です。
コヴィー博士はこう言います。
『行動を起こす責任はあなたにある。周りが動くのを待っていれば、必ずや周りに左右されることになる』
『反応的な人の言葉は、自らの責任を否定するものである』
「ナチス強制収容所」となると究極の環境なので、とても難易度が高い話に思えますが、そうではありません。コヴィー博士は日常のこんな会話で理解を促します。
誰でも「うっかり」反応的に生きていることがわかるエピソードです。
『大学で教えていた頃、ある時ひとりの学生が私にこう質問した。
「授業を休ませてくれませんか。テニスの合宿にいかなくちゃならないんです」
「行かなければならないのか、それとも行きたいのか。どちらだね」
「いやぁ、本当にいかなければならないんです」
「行かなかったらどうなるんだい」
「行かなかったらチームからはずされます」
「その結果についてどう思うかい?」
「いやですね」
「つまり、チームからはずされないという結果が欲しいから、行くことにしようと思っているんだね。では、授業に出なかったらどういう結果になると思う?」
「分かりません」
「よく考えてごらん。授業に出なかったら自然の結果としてどうなるんだろう」
「単位を落とされたりはしませんよね?」
「それは社会的な結果で、人がつくるもんだ。テニスのチームに参加しなければプレーはできない。それは自然の結果だ。クラスに来なかったら、その自然の結果としてどうなるだろう」
「学ぶ機会をうしなうでしょうね」
「そうだ。だからその結果と他の結果を比較して、選択しなければならない。私だったらテニスの合宿に行くことを選択するだろうね。しかし、何事もねばならないとは、絶対に言わないでほしい」
「では、僕は合宿に行く方を選びます」
と、もじもじしながら彼は答えた。
「なんだって、私の授業を休むって」
と冗談半分にからかいながら、私は言い返した。(七つの習慣より引用)』
どうですか?人間ってむしろ「意識しないと」反応的に生きてしまうのだと思います。だからこのエピソードにあるように「日常何気なく使う言い回し」から正していくのが「最初の一歩」を踏み出すアクションとして我々がやるべきことだと思いました。
「自分で自分の人生を選択してる」
そう自信を持って言える人生をお互い目指しましょう!
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