准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

人生は「瀬」と「淵」の連続

 仙台市を流れる「広瀬川」、知ってますか?

 ♪広瀬川~流れる岸部~♪という歌いだしで有名な、さとう宗之さんの青葉城恋歌を聞いたことある人なら、ご存知のことと思います。若い方は知らないかな?!

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 この広瀬川、実は知る人ぞ知る「奇跡の川」なんですよね。

 何が奇跡かって……仙台の都心部を流れるにも関わらずこの時代にして、「護岸工事」がほとんどされていなくて「自然を多く残した川」なんです。ビルが見えるシチュエーションで渓流魚のヤマメが泳いでいるなんて全国広しと言えどもそうそうない気がします。

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 護岸されていない川と護岸された川って何が違うかわかりますか?

 実は仙台にいると、それがありありと分かるんです。

 理由は、市内に「広瀬川」と対照的な川が並んであるからです。規模も広瀬川と同じくらいの「七北田川(ななきたがわ)」という川です。ご想像の通り、この川は護岸されまくり。だから全然、広瀬川と川の風景が違うのです。

 パット見て、何が違うのかって……そりゃ「生命力」が違います。ちょっと表現が抽象的過ぎますか(笑)
 具体的な話をすると広瀬川は護岸されていないのでカーブがきつい場所が多くあり、ゆえに川は常に「瀬(流れが速い)」と「淵(緩やかな深場)」を繰り返しています。 瀬があり、渕があるということは酸素含有量が多い、生物がすみやすい川になります。特に清流にしか住めない魚が豊富に生息できる環境を保てるということでもあります。

 例えば「鮎」とか「サクラマス」とか……水質が綺麗でないと生息が難しいとされる魚は、「水のきれいさ」と、もう一つこのような変化に富んだ川であることがポイントだったりします。
 反対に七北田川は護岸ばかりで流れの緩やかな一直線の、しかも浅い流域がかなりの上流まで続いていて、受ける印象は「どんより」。つまり川が生きている感じがしないのです(個人の感想ですが)。証拠に30年前、護岸工事がされていない頃は春になるとサクラマスの大群が海から遡上したそうですが、いまでは全くそれがなくなってしまったそうです。広瀬川はいまだにサクラマスが多く遡上する川として有名です。

 さて、そろそろ川の話に飽きてきたと思うので?少し心理学の話をしたいと思います。

 川の話では七北田川のように「変化のない穏やかな」川は「よどんで生命力がない」なんて書きましたが、こと人生においては「穏やかな」な方がよさそうですよね。

 でも、無意識を扱う多くの心理学が言うように、おそらく変化のない人生を選ぼうとしても「自分が」良くても「人生」が許してくれないんですよね。

 人生に訪れるきっと避けることができない辛くて、厳しくて、できれば経験したくない災難。皮肉にもそんな災難があるからこそ人生に「瀬」と「淵」という生命力の源が出現して、自らの変化を後押ししてくれる。

 ちょっと難しい表現を用いるならば「アイデンティティーの変容をもたらしてくれる」ということでしょうか。

 私が最もリスペクトするアーノルド・ミンデルの「プロセス指向心理学」ではこのような人生(川)を「プロセス」と呼び、プロセス(川)が指し示す方向へ、ありのままに歩んでいくことを良しとする心理学です。

 七北田川のように「変化のない人生(プロセス)」をこの心理学では「一次プロセス」と呼び、新しい変化を促す人生を「2次プロセス」と呼びます。人生はそれを許しませんが、私たち「自分」は「安全な」一次プロセスを好みます。だから通常、人は無意識に二次プロセスに抵抗しています。その本人が気付けていない抵抗のことをこの心理学では、「エッジ」と呼びます。

 では、どうやって我々はその抵抗(エッジ)を乗り越えていくのか?具体的なヒントはあるのか?

 ミンデルの著書「シャーマンズ・ボディ」にこんな一文があります。

 『多くの心理学的そして霊的な体系は、降りかかってくる障害を避けることを提案しているが、それとは反対に、シャーマンはそれがまだあなたのものになっていない「力」であることを指摘する』

 ……障害が力になる。

 これはまさに障害が人生に「瀬」と「淵」をつくり、それが力と成って人生に変容をもたらすことができるということを説明しています。

 同著では、そうするためのヒントが書かれています。

『あなたの周辺で今起こっていることを探ってみよう。一番気になる出来事を選び、それに焦点を当ててみる。そのシグナルを増幅し、強め、展開してみよう。その秘密を開示するために。それが身体の問題ならば、その感じを深めてみる。それがふと心をよぎるファンタジーならば、そのファンタジーの中にとどまってみる。それが不可解な動作や音であっても、そのままついていってみよう。中略~もし、あなたが体験から手を引きたくなったら、そこがエッジだ。あなたのアイデンティティーが、あなたを引き留めているのだ。エッジに注意を向けること……すなわち、起こっていることに対するためらいや抵抗に気づくこと……、そしてそのまま続けるか、それとも引き返すかを自覚的に決定することが大切である。普通の夢やファンタジーなどでは、こうした行き詰まりやエッジは見逃されてしまう。あなたは内容を変えるか、目覚めるか、何か別のものに注意をそらすかして、それと直面することを避けてしまうのだ』

 ここでのキーワードは「気付き」と「増幅」だと私は解釈しました。
 まずエッジに気づけなければ話にならない。だから最初は「気付き」を促すために注意深く自分の「抵抗」に気づくことに注力する。そして幸運にもその「エッジ」に気づけたならば、そのエッジで感じる不快感をしっかり「受け入れ」てみる。

 そしてミンデルのユニークなところは「受け入れる」にとどまらず「敢えて増幅してみろ」という。不快と思うなら、もっともっとその不快感を増幅して全身でそれを感じてみる。その不快感が意識に昇り表現する機会を与えられれば、今度は「自分が」それをしっかり統合するように動き出す……ミンデルはそんなことを言っていると思います。。

 いままでの記事でも「遭遇する全ての出来事の意味を考えよ」というメッセージは事がるごとにこのブログでもしてきたと思いますが、これは仏教(密教)の修行仮定で学んだことでもあるし、このミンデルのプロセス指向心理学がヒントになっているという部分も大いにあります(前の記事でも個人的に密教とミンデルは相性がいいと想っている、書いたこともありましたね)

『人生をより豊かに』……そこらじゅうで見かけるセンテンスだと思いますが、その豊かさのために「エッジ」に向き合い「二次プロセス」をどう生きるか?

 それが自分にとっての課題だと……実はここのところ辛いことが続いている今、つくづく思い知らされています。

 ただ辛いと感じるだけの体験で終わるのか?変化してさらなるステップに進むのか?今が勝負どころだと感じています。

 

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