准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

中国武術のイメトレ「意功」について

 中国武術の世界では世間で「超能力」と呼ばれるような力を発揮する人が確かにいる。

 私が大学時代に学んだ中国武術の師がまさにそんな力を発揮できる人でした。

 中国武術なので「スプーン」を曲げたり、トランプのカードを当てたりという世間一般の方がイメージする「超能力」とは少し違う。

 やはりそこは「武術」なので武術らしい能力ということになる。

 私の当時の師が実際に目の前で実践してくれたそんな能力を紹介してみる。

 我々はいつも「公園」を利用して武術の鍛錬をしていたが、その日はあいにく雨だったので屋根の付いた休憩所に退避していた。その狭い場所には15人程度の練習生が集まっていた。皆、広く動き回ることができないので站椿(立禅)をやったり、その場でできる套路(型)などを思い思いにやっていた。

 すると師がおもむろに「公園の向いにあるスーパーで割り箸を買ってこい」と弟子の一人にいった。

 その弟子が割り箸を買ってくると師は「これから意功(いこう)の練習をしよう」と言い出した。

「意功」というのは乱暴に言えば中国武術流の「イメージトレーニングの一種」と思ってもらえるといい。

 やり方はこうだ。まず割り箸を割いて、その一本を一人が両の手で握る。もう一人がもう片方の割り箸を端を握る。そしてその割り箸を「剣」のように上から振り下ろし両の手でつかんだ割り箸を折る。

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 両手でつかんだ割り箸が折れれば成功。振り下ろした割り箸が折れれば失敗となる。

 「一本vs一本」であればコツを覚えれば誰でもできるようになる。むろん超能力でもなんでもない。一本vs一本ができるようになったら両の手で持っている割り箸の本数を増やしていく。一本からスタートして二本、三本、四本……。むろん振り下ろす割り箸は一本。

 本数が増えるとなかなか難しい。

 結局、最も多くの本数「四本」を成功させてた弟子が十五人中二人いた。ちなみに私がそのうちの一人(プチ自慢&過去の栄光:笑)。

 ちなみに一本の割り箸で四本の割り箸を折ることができても、きっと「タイミング」「コツ」という領域の話でこれまた超能力ではないと想像する。ただこれを成功させるための「コツ」は「折れるイメージをどれだけもてるか」に掛かっている。折れるときはやる前から「あ、これは折れるぞ」というのが分かる(気がする)。逆に「四本なんて折れる訳ないだろう」と思ってるとやっぱり自分の振り下ろした割り箸が無残にも折れる。

 つまり「意功の練習」というのは概ねイメージ力のトレーニングなんだと了解した。    ただ少しだけ専門的なことを言うとそのイメージには「ただ折れるイメージ」を思う以外にもう一つの「イメージ」が存在する。そしてこの後者のイメージこそ特に重要だと思われる。

 それが「気のイメージ」だ。当時の弟子は当たり前のように日常的に「気の鍛錬」はしていた。だから少なくとも自分が此れから振り下ろす割り箸に「気を乗せる」というイメージは皆かなりリアルにできた。

 気のイメージは「イメージ」といいつつも割と「物理的な感覚」をはっきり感じることができて、例えばこの割りばしに気を乗せるとその割り箸の周りに「粘着質」な空気に覆われる感覚が分かる(脳の錯覚かもしれないが)。するとその割り箸が重い剣のようなイメージに変わりその瞬間に振り下ろすと割り箸が割れる。

 さて、そろそろ超能力の話をしよう。我々が「四本が限界だな」と概ね自分たちの実力を知ったところでようやく師の登場だ。「四本か、まだまだだな」といいつつ師が手にしたのは割り箸ではなく「割り箸の袋」だった。そうあの紙の袋です。しかもそれを半分に割いて一枚の紙にして手に取った。ひらひらの薄い紙で割り箸が折れるとは到底思わない。しかも驚いたのはそれだけではない、師はなんとその割り箸の袋の紙を振り上げることなく「ぴらっ」と持っている割り箸の上に乗せてしまった。つまり「距離がゼロ」ということ。

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 そのまま「ハーッ!」と気合一発入れるとその紙が触れている場所から割り箸が真っ二つに割れた。「そんなバカな!」弟子の皆が思った。

 しかし、そこで話は終わらなかった。今度は「紙」の代わりに「髪」を一本抜いてそれを割り箸の上に「たらり」と置いた。後は同じである。気合いと共にやはり割り箸は真っ二つに割れた。

 髪の毛一本で割り箸われますか?

 それから「じゃあこの鍛錬の最終形を見せてやる」そう言った師は今度は手には何も持たずに人差し指と中指を二本だけ立てて構えた。

 そう「刀印」の形だ。

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 実はこの時割り箸を握っていたのは私だった。私が両手で持つ割り箸から離れること50cm。その何もない「空間」に気合いと共にその「刀印」が上下に振られた。その瞬間私の持っていた割り箸が「パンッ!」と鋭い音を立てて真っ二つに割れた。弟子の皆が驚愕のあまり言葉を失った。

 後から弟子の何人かに「おまえが割ったんだろう」と割り箸を持っていた私が「イカサマ」の片棒を担いだと疑われたが、もちろんそんなことはない。確かに私はさっき買ってきたばかりの割り箸をただ両手で握っていただけだった。

 敢えて別の可能性を考えるなら群集心理で私が催眠に掛かってしまい私が意図せず無意識に割り箸を割ったということはあり得るのかもしれない(きっと違うと思うが)。 

 まあ、それはそれで凄い能力ですがね。

 さてここからがポイントなんだけど。最後の師の「離れたところからものを壊す」という最終形だけ見ると確かに「超能力」なのだが、実はそれにたどり着くまでの「鍛錬」が存在してそれは「誰でもできるところから」スタートしているということ。これには「気の鍛錬ができている」というのが大前提の鍛錬だが、我々としては「ああこの先にあの最終形があるんだ」というのはリアルに実感できるものだった。

 まあ私はそれから間もなく退会してしまったので、そこまでの能力を獲得できるには至らなかったんですがね。

 これを読んだ方は私からの「また聞き」になるので、なかなか信じられないとは思いますが私的にはこれは紛れもない事実です。だから、密教を学んでいても「超自然的な力」を受け入れるための強力な根拠になっている。

 そう言った意味で私はやはり過去に中国武術を割と真剣に学んだ経験は今に繋がっていると感じている。

 

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