「禅」「瞑想」は仏教では「はずせない」修行であることは、誰もが知っている。
巷にはおびただしい数の「瞑想」と名の付く修行……というよりは「メソッド」が存在する。
だから初心者の方は何をやったらいいのか迷ってしまうだろうと思う。
皆さんが「在家」の信仰者として修行する「瞑想」なら、絶対にはずせないポイントがあると私は思う。
それは「続けられる瞑想であること」だ。
当たり前だが、どんなに優れた瞑想だって続けられなければ、その人にとって全く意味をなさない。
「続けられるかどうかは本人の意志の問題だ」
だろうか?
確かにそれもそうだろう。ただ現実的に「あたな」は、その瞑想をどれだけ継続できましたか?(過去形)
敢えて意地悪に「過去形」で書いたのは、多くの人は「もうやめてしまっている」という前提で過去形にしました。
「続ける」というのは「一週間」とか「一か月」とか、もっと言えば「数年」とかというスパンの話をしていません。何十年、一生という話をしています。
それだけ続けられますか?
白状すれば、本格的に仏教を学ぶ遥か以前から(学生時代から)この「瞑想」というもに過度に興味を持ちあらゆる瞑想に手を出してきた。
ただどの瞑想も本当の意味で「継続」できたものはなかった。その原因は上述した通り「私の意志が弱い」ということが根っこにあるのだが……でも多くの在家の信仰者には瞑想を、「真の意味で継続する」というハードルはかなり高いと思うのだ。
20年前。ある瞑想の本を手にした。
「なまけ者の三分間瞑想法 デイビィッド・ハーブ著(創元社)」
最初、この本のタイトルを見てどう思ったか?
「3分間の瞑想?それで何の効果があるという言うのだ、冗談も休み休み言え!」
大体そんな感想だ。
よくよく読んでみると、この本の著者はとても勉強熱心なようで伝統的な仏教、ヨーガなど幅広いメソッドを咀嚼して自分の平易な言葉で紹介している良著ということは分かった。ただ、この本の本当の価値はそこではない。
この本の価値は、瞑想は「時間をかけて」「さあやるぞ!」と始めるばかりではないというスタンスなのだ。
例えば、ふと時間が空いた瞬間に、数息観(自分の呼吸を数える簡便な瞑想法)やってしまえばいい、とか。
具体的には車の運転中の渋滞で、「イライラした時」にでもやったらいいとする。ポイントは3分間とは言わず、1分でも30秒でもやってみる。そして「これも立派な瞑想修行だ」と捉える。
事実、たった30秒でもおそらくこの時「イライラ」は軽減し、「瞑想」の効果を瞬時に体験できてしまう「生きた経験」ができる。
「これ」を習慣にしてしまえばいい。だとすれば「瞑想の時間」なんて決めなくても「ショート瞑想」の時間を一日のうちに何度も確保すればいい。それで何度も瞑想経験できるようになる。しかも継続力のよさは折り紙付きだ。だって30秒でもいいのだから。
例え1時間の瞑想を1年継続できたとしても、その後「パタリ」と止めてしまったのなら、3分の瞑想を数十年~一生続けている方がおそらく人生のプラスになる。
結局どの瞑想も「一生続ける」という意味での「継続」ができなかった私のような「なまけ者」が継続するポイントは……「3分間(30秒でも)」そして「いつでも」という2点なのだ。
さあ、では今日から「ショート瞑想」をはじめましょうか。
合間の時間があったらとりあえず自分の呼吸を数えてみましょう。
しばらくして「イラッ!」としたときに、無意識に呼吸を数える自分がいたら……きっとあなたの修行は間違いなく進んでいますよ(^^)
(近い将来「瞑想」に関する指導もしていきたいと思っています)
※上記本のリンクしておきますが、わざわざ買わなくてもOKですよ(笑)
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