先にアップした下記記事にコメントいただきましたので、こちらで返信したく思います。
以下、「ころんちょさん」のコメントです。
『魔境という言葉の意味が変わってしまってるということもありそうです。
本来ならば修行者がまさか成道とまでいかないまでも、それなりの禅定等に入る手前で襲われる現象かと。 想像を絶する恐怖体験になると思います。そっちに行かれたらもはや手が届かなくなるのを良しとしない存在や、自我が最後に抵抗をするのでしょう。
お釈迦様や杜子春のような話の何百分の一か、しかし同質であろう、、これ以上は”危ない”とかこんなことなら”やらなきゃ良かった”、”助けてください”という想いにいっぱいにされてしまう。そこで実際に行が止まったら、魔境成立です。
ただ、独りしかいないとか外国に居るなど間の悪い時、ブレーキを踏もうにも踏めるような状況になかったり、ふんわりでもアクセルを踏み続けるしかない場合、体力気力が勝れば一転サマーディに入る筈。
そういうことの絡んでない話に魔境というのは、ちょっと釣り合わないと思います。 のんびり、神秘体験に対してあれは魔境かな?っと考えられる魔境はないでしょう。
現在では、人の体験にケチをつける道具として魔境という言葉が使われ勝ちです。 しかし、体験の価値はした本人もよく分かってる筈で、修行者は途中で出会う不思議に多いに励まされ、いよいよ行に身が入ることも多いでしょう。
行に弾みをつけてしまうような魔境は無いと思います(^_^;)』
ころんちょさん
コメント&ご指摘ありがとうございます。
なるほど、「魔境」という言葉を使う場合には少し注意が必要ですね。
ころんちょさんがおっしゃる「想像を絶する恐怖体験になると思います」というご説明で、先に私が不動真言、 一洛叉(いちらくしゃ、10万遍のこと)の行での体験を「サマーディの手前にいたと」考察していただいた意味もようやく理解しました(汗)。
あのような死を感じる程の恐怖を感じてこその「魔境」ということですね。
確かにまだまだ修行途中の人間が経験する魔境「らしき」体験と、ブッダが悟りの直前で体験した「魔境」をイコールと考えるのは「違うだろう」ということはよく理解できました。
有難うございます!
ご指摘のように(私も含め)多くの人は、「ふんわり」と「魔境」という言葉を使ってしまっているので、少なくとも仏教ブログで話題にするなら、「この記事での定義」を明確にするのが適切だと感じました。
そこで先の記事に限って「自分はどんな意味で使ったのか?」ということを自身の意中を探ってみれば、概ね以下の説明が近い意味合いでだったかな、と思います。
『魔境(まきょう)とは、禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態で、意識の拡張により自我が肥大し精神バランスを崩した状態のことを指す。ユング心理学で「魂のインフレーション」と名づけられた状態だという指摘もある。
辻村公一「禅に於ける「魔境」 : 先師抱石菴久松眞一博士を回想して」『日本學士院紀要』第62巻第2号、日本学士院、2007年12月、 141-171頁』
「魔境」と「途中で出会う不思議に多いに励まされる体験」は、ごっちゃにせず分けて考える必要はありそうですね(^^)
これを機に私も「魔境」という言葉を、もう少し深堀してみようと思いました。
取り急ぎ、参考になりそうな記事をネットで探したら(←安易ですが)、以下の記事が引用元を明確にクレジットしているので良質と思いました。
読者さまも、ご参考にして一緒に勉強しましょう!
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