准胝院のブログ

八王子市で准胝仏母を本尊とする天台寺門宗祈願寺院「准胝院」のブログです。准胝仏母祈願、不動明王祈願、人型加持(当病平癒)、先祖供養(光明供)、願いを叶える祈願(多羅菩薩)、荼枳尼天尊(稲荷)の増益祈願等

感情に巻き込まれないための『檀拏幢』

 先日の記事で「鎌倉の仏像写真集」が沢山押し入れから出てきたという記事を書きました。前回は「当時好きだったお像」をピックアップしてご紹介しましたが、今回は「当時全く興味がなかったお像」だけど「今回(今現在)めちゃくちゃ気になったお像」を一つ紹介したいと思います。

 

まず画像から。

 北鎌倉にある「円応寺」にある『檀拏幢(だんだどう)』です。

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(引用:佛姿写伝ー鎌倉 駒澤晃写真集 神奈川新聞社

 かなりのインパクトですね。

 

ちなみに円応寺で有名なお像と言えば、むしろこちらの初江王坐像です。


www.yoritomo-japan.com

 

 さて『檀拏幢(だんだどう)』。

 当時はあまりの「おどろおどしさ」から速攻でページを飛ばして「見ない」ようにしていましたが、今回は「じっくり」目に留まり、いろいろ考えることがありました。

 

 このお像は……『浄玻璃鏡と共に閻魔大王の必携アイテムとして閻魔堂に配置されたり、地獄絵にも描かれる『檀拏幢(だんだどう)』と呼ばれるもの』と解説されます。「人頭杖」とも呼ばれますね。

 

 ちなみに私が引用した写真集でも「人頭杖」となっていました。

 

 「今現在」の私が気になった理由の一つは、私が「焔摩天」をこよなく「信仰」しているからということが大きいのですが、それとは別に今回はこの『檀拏幢』から「人間の心理」についても多くのインスピレーションを貰いました。それについては後半に記します。

 

 さて、まずはこの不思議な「お像」の解説を最初にやってしまいましょう。

 

 この双頭の『檀拏幢(だんだどう)』は、ちょっと調べた感じだと所謂「地蔵十王経」が典拠ということがわかります。同経を意訳しているサイトがありましたので、参考にさせていだきました。

 

 該当の部分です。

 

閻魔王国は無仏世界、預弥国、 閻魔羅国とも呼ぶ。大城で周囲を鉄垣で囲み、四方に鉄門を開く。門には檀荼幢が はためき、 その上に安置された人頭形人、これが人々の本性を見抜くこと、手中にある果物を見るが如し。 その右にあるのが黒闇天女の幢で、左が太山府君の幢である

 

 このサイトから引用しました。

ayiva.sakura.ne.jp

  ちなみに「閻魔大王」ではなく、密教系の菩薩形の「焔摩天」も「人頭杖」を持っていますが、頭は一つだけでしかも本尊同様に「柔和形」です。我が家の焔摩天もむろん持っています。

 

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 こちらの説明も確認します。

『人頭幢は檀拏印、檀荼印、檀荼杖、閻魔幢、死王節印等とも呼ばれ、棒の上の半月形に人頭を載せたものであり、『大日経疏』によると、衆生の善悪の行いを監視し、ヤマ(焔摩天)による死者の審判を補助するものとされる』

 

 形は違えど、働きは同じようです。

 

 少し調べるとこんな説明を見つけました。

 

『この人頭幢は、単なる持物から、「泰山府君幢」と「黒闇天女幢」という二体幢をへて、最後には二体幢が合体した「見る目嗅ぐ鼻」と呼ばれる一体二頭の形式へと変化する(日本における泰山府君の受容と展開)』

 

 さて、「地蔵十王経」には、この男女の頭の正体が説明されていました。

 

太山府君」と「暗闇天女」です。一見すると、どうしても「罪人の晒し首」のようで一瞬「ゾッ」としてしまいますが、そうではなくそのお顔は焔摩天の主要眷属である天部のお顔だったということが分かります。

 

 「太山府君」は、焔摩天の眷属で、十王信仰では「太山王(泰山王)」と呼ばれ重要なポジションにいることでも有名ですが、むしろ「太山府君」の知名度安倍晴明が使ったとされる陰陽道の死者を蘇らせる秘術「泰山府君の祭」でしょうか。

 

 余談ですが、なぜか息子たちがこの「太山府君」を知っていたので「なんで?」と聞いたら陰陽道を描いたライトノベル原作のアニメでこの儀式が出てくるそうです。

 

ja.wikipedia.org

 

 さて「太山府君」と言えば「道教」の神というイメージが強いが、上で紹介した写真のお像は三眼の忿怒像でどうも「道教の神」とは違う。

 これはホントに「太山府君」なのか?と疑問に思っているとあることを思いだいました。それは『「そうだ、確か太山府君深沙大将と同体なんだ』ということ(参考文献:『修験道修行入門』羽田守快著(原書房)p.129-132)

 

 たしかにこのお顔のイメージは深沙大将なら納得できます。

 

 さてではもう一方の「暗闇天女」はどうでしょう。

 

焔摩天

②吉祥天の妹

 

そんな説明を多く見かけます。

 

①の解説文

サンスクリット語名をカーララートリー(Kalaratri)と言い、意訳して黒暗天、黒夜神等とも呼ばれる。因みに、カーララートリーはヒンドゥー教の女神カーリーの別名でもある。一面二臂で「胎蔵図像」などでは右手の掌に髑髏を掲げ、左手は髑髏幢を持しているが、現図曼荼羅では右手の掌を仰向けにし、左手は人面幢を持している』

 参考サイト

ameblo.jp

 ②の典拠としては『『涅槃経』12には「姉を功徳天と云い人に福を授け、妹を黒闇女と云い人に禍を授く。此二人、常に同行して離れず」とある(ウィキペディア)』でしょうか。

 

 さて、前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。

 

 この『檀拏幢』のお顔が誰なのかという議論はさておき、お働きとしては「善悪」をジャッジするとあります。

 

 実はこの『檀拏幢』はうちの近所にある小さな「十王堂」と呼ばれるお堂にも安置されています。つまり比較的人目に付く機会も多かったのだろうと想像します。

 ameblo.jp

 とするとこれを見た多くの人々は「どんな心理になるのだろうか」ということを考えてみる。この見た目のインパクトを考えれば皆、こころを揺さぶられるだろうと想像します。つまり強制的に注目せざるを得ない。

 

 するとおそらく多くの人がこのお像をみて、過去を振り返りながら「ああ、俺のあの行為はきっと悪だな、でもあの行為はきっと善としてくれるだろう」なんてことを「あれこれ」と思い出しながら想像を巡らせることになると思います。

 

 その「善悪」の判断は「その人の価値観」で行われることと思うのですが、でもこのお像の前でそれをするときは、このお像は極めて「第三者的な」ジャッジをする「装置」として機能するんだろうな、と思いました。

 

 いわゆる「メタポジション」に自動的に入れる「装置」になり得ると。

 

 メタポジションとは、「ある状態や事象、経験に対して、第三者的な客観的な立場でみる立ち位置のこと」と説明されますが、これをするメリットは「自分の感情に巻き込まれない」ということになります。つまり脳の「感情パート」と「判断パート」を切り離すことで「感情の渦」から抜け出して冷静な判断力を発揮することができる一つのテクニックです。

 

 ただ、これはそう簡単にはできませんよね。感情が粗ぶっているとき、酷く落ち込んでいるとき、どうしてもそれに引きずられて「好ましくない判断(多くは考えなしに)で好ましくない行動」をとってしまいます。

 

 でもどうでしょうか……この『檀拏幢』の前に立った時、このインパクトのあるお像の前に立たされれば、それまで引きずられた感情はどこかに吹き飛んで「その行為は間違っていないのか」という善悪を冷静に判断「させられてしまう」のではないでしょうか?

 そして(何度もお参りして)そんなことを繰り返していれば、そのイメージはいつしか自分の心に残り続けて、お像の前に立たずともそんな「メタポジション」の「習慣」を手に入れることができるかも。

 

若いころは「おどろおどろしくて」避けていたこの『檀拏幢』

 

……感情に流されて失敗の絶えない私にとっては、常に心の中に持っておきたい『幢』と今は感じている。

 

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